元町にて・ある船乗りの話(その3)
資料館の中には、そうした戦争で犠牲になった船、
7240隻のうちの約1500隻の写真が掲示されている。
そしてその写真は1941年の12月から1945年の
8月へと順番に掲げられている。
中には戦前の日本が誇った豪華客船の浅間丸、龍田丸、
鎌倉丸をはじめ、漁船の写真まであった。
浅間丸
龍田丸 (この船は覚えておいてくださいね。笑)
秩父丸→後に鎌倉丸と改称
戦前の日本を代表したこれらの豪華客船は、
すべて戦乱の中で犠牲になって海に消えてしまった。
でも、日本って、本当にすごいと思う。明治維新の開国後
60年ほどで、こんな数万トンもの豪華客船を作って
いたんだもの。
学芸員のUさんが、実はここからここまでが昭和16年、
ここからここまでが昭和17年、、、と沈んだ船の写真の数を
教えてくれる。
それは明らかに日本の負け戦の経緯を示していた。
きちんとした公式の資料があるものだけで、
昭和16年は1ヶ月もなかったから措くとしても、
昭和17年に犠牲になった商船は227隻だったのが、
18年には471隻になり、19年には1091隻になった。
そうして、20年は789隻の商船が犠牲になっている。
この2588隻の総トン数は847万3808トンになる。
この船が海の藻屑となって水中に没してしまったのだ。
Uさんは、この資料館の立ち上げから、ずっと
かかわってこられた方なので、展示されている
どの資料についても、質問をすると反射的に明快なお答えを
してくださる。
戦前の日本が造ろうとした豪華客船の橿原丸の模型の前に
来た。
(これは橿原丸の完成予想図)
この橿原丸は昭和15年にできる予定だった、と言う。
「昭和15年ですか? 」
「オリンピックですよ。」
「あ、そうか。皇紀2600年記念のオリンピック
東京大会ですね。」
「そう。そのお客さんの輸送と海上ホテル、
として計画された船だったんですよ。」
「でも、オリンピックは中止になりましたね。」
「そこで当初の目的どおり、空母に改装
されました。」
「そうでしたね。隼鷹(じゅんよう)になりましたね。
(これが橿原丸を途中で空母に改造した隼鷹)
それで客船から空母に改装された船が結構
たくさんありましたよね。」
「ホラ、ここを見てください。船尾にプールがあるでしょ。」
橿原丸の模型を指差してUさんが言う。
「ええ。この階とこの階と二ヶ所プールがありますね。」
「これ、実は、意味があるんです。」
「は? 」
「空母に改装した時は、このプールがそのまま飛行機の
昇降用のエレベータなるように設計されていたのですよ。」
「そういうことまで考えて設計されていたんですか。」
「そうです。ですから、この船にしても、空母に改装
できるように、この船に積んだエンジンを普通の商船の
このトン数の船では考えられないような大きなものに
していたんです。」
「だけど、それを船会社が考えて設計をしたのですか? 」
「いや、海軍省からそういう内示があって、それで
この船だと建造資金の3割くらいを軍が補助して造ってたんですよ。」
ということだった。つまり海軍が金を出して建造の補助を
しておいて、だからその金を補助したから有事の際は
使わせろ、ということだったようだ。橿原丸も同じ大きさの
出雲丸もそうして建造途中に豪華客船にならずに空母と
なって、戦場に赴き、不本意な生涯を終えてしまうことに
なってしまった。
でも、やはり客船を空母に変更する、というのは
無理があった、とのこと。例えば、鉄板の厚さ、だそうな。
最初から軍事用の船ならば、それなりに厚くする、
ということもあるけど、やはり客船として建造された
船は鉄板が薄い、ということだった。
そう広い資料館ではなかったけれども、ひとつひとつ展示物を
丁寧に見ていったので時間があっと言う間に過ぎてしまった。
最後に○○さんは、海底に沈んだ遺骨の写真を見せてくださった。
「これは、フィリピンのある環礁の日本の輸送船の沈没船の
中に今もこうしてある遺骨です。」
「え? 今もこの状態なのですか? 」
「厚生労働省が引き上げをしようとしたのです。ですが、、」
「はい? 」
「日本政府は、バキューム方式で一括して遺骨を吸い取って
集めようとしたわけです。ですが、その方法を採ると、
サンゴが絶滅したり海の環境が変わるから、といって
フィリピン政府がその方法での遺骨の収集を許可
しなかったのです。」
「それでどうしたのですか? 」
「日本政府はダイバーによって潜らせて遺骨を集めさせる
という方法を採りました。ですがこの方法だと、バキューム
吸い取り方式より、ずっと人件費がかさむ。
人件費がかさむので当初予定されていた遺骨収集は、
全体の半分も済んでいないうちに予算を使い切ってしまったために
中止されました。で、こうした遺骨が残っているわけです。」
「残っているけど、金がないからもうこれ以上できません、
というわけですか。」
「で、この写真を知った人がブログに載せて、
厚生労働省は、金がなくなったと言って、
まだまだたくさんの遺骨が残っているにもかかわらず、
遺骨収集を途中で止めた、と文章を載せたようです。そうしたら
厚生労働省の役人がどうもその人のブログを見たようで、
その写真の掲載中止を求めてきた、ということがありましてねぇ。」
というお話をしてくれた。
事実を事実そのままに書いてどこが問題なのか。
よほど厚生労働省のやり方のほうが
遺族の気持ちに沿わない対応ではないのか。
まぁ政権も替わることですし、(この資料館に行った日は9月15日)
厚労省のトップも代わるようなので、もうちょっと
血の通った対応が欲しいですね、という話を最後にした。
「今度はおとうさまも是非ご一緒にお越しください。」
「はい。父にそう申し伝えます。本当にありがとうございました。」
と、最後に俺はもう一度Uさんに最敬礼をして、
この資料館を後にしたのだった。
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Comments
謙介さんこんばんは。
謙介さんの今回のお話にもありましたように様々な意味で「戦後」は終わっていないと思います。
硫黄島もアメリカが滑走路を作るために激戦のあった場所を舗装したそうです。(何がどうなったかはご存知だと思います。)
世の中にはどうしてよいのかわからない事がたくさんあります。
「当時日本は開戦するしかなかった。」と当時を知る年配の方はおっしゃいますが本当にそうなのか時間をかけてどうしても知りたいテーマのひとつです。
終戦まじかでも「海軍さん」にはお米がたくさんあったそうです。
哀しいことです。
繰り返してはなりません。
Posted by: ラジオガール | 09. 09. 28 PM 8:35
----ラジオガールさん
こんばんは。日本人は「水に流す」とか「忘れる」ということを言ったりすることがあります。時間が経てば、あれほど強かった決意が揺らいだり、次第に元の意識とはずれてしまったり、ということがありますが、やはりなぜ、戦争に至ったのか、そうしてその戦争はどういうふうに行われたのか、ということについては、おっしゃるように今なお明らかになっていない部分も多々あります。歴史は決して過去の学問ではありませんよね。時間はかかっても、どんな痛みが伴おうとも、事実を是非つまびらかにしていかなければならないように思います。
Posted by: 謙介 | 09. 09. 29 PM 7:03