元町にて・ある船乗りの話(その2)
資料館の入り口でごあいさつをすると、
学芸員のUさんが
早速出てきてくださって、この資料館のあらましや
現存の資料についての詳細な説明をしてくださった。
最初この資料館は横浜市に作る予定で、最初は市の施設の
中に作ろうとしたら、横浜市からはそんな印象の悪い物を
作ってはといけないと反対され、(俺は「印象」が悪いからダメとか
「縁起」が悪い施設を作るな、と言って反対したという
横浜市の「見識」を疑うね。)
それから今度は横浜港の赤レンガの
倉庫を借りようとしたらしい。すると今度は
倉庫の管理会社から、倉庫は貸すけれども、倉庫の中は
資料館用に改装したりしてはいけない、と、言われたそうな。
そういうことで横浜をあきらめた後、いろいろと
候補地を探しているうちに、神戸の今の場所が空いている、
ということで、建物の管理団体に打診をしたら、
先輩の船員の方々の苦難の歴史を展示することは大きな
意味のあることなので、どうぞどうぞ、ということに
なったらしい。
それに神戸なら港町だし、船員の
こうした資料館があるのだって実にふさわしい場所では
ないか、という結論になって、神戸の海岸通の場所に正式に
オープンすることになった、ということだった。
なぜ謙介がここに来たか、というと、前にも
何度かこのブログで話したことがあったと思うけれど、
俺父方の祖父は太平洋戦争中、輸送船の航海士として
乗り組んでいた船が、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を
受けて、船もろともに海の中に沈んでしまった。
だから「遺族」なのだ。
しかしそれについてはうちのオヤジの記憶の中に
あるだけのことで、果たして俺の父方の祖父の名前が
商船の乗組員で戦死した、という公式の記録の
中にきちんと入っているかどうかを調べるのが、
今回この資料館を訪れた目的だった。
「おじいさんは何県のお住まいでしたか? 」
俺が祖父の出身を答えると、○○さんは
早速その地区の戦没した乗組員の名簿を持ってきて
くれる。
「これです。」
「こんなに分厚いんですか。」
「やはり近畿地方出身者は多いんですよ。兵庫、大阪、京都、
は特に多いです。」
俺はその名簿の分厚さに驚いた。
ひとつの都道府県の名簿だけでも2センチくらいの厚さが
あるのだ。しかも中の文字は非常に細かい。
これだけの人の命があの無意味な戦争によって亡くなって
しまったのだ、と思うと、俺は胸がつまった。
「えーっと、おじいさんは陸軍の徴用でしたか? 」
「え? 」
「戦争に出た商船は、陸軍の徴用と海軍の徴用と
それから船舶管理協会の借り上げというのがありましてね。
「え、っとそこまでは聞いてこなかったんです。」
「じゃあ、順番に見ていきましょうか。」
まず陸軍の徴用の船員名簿を見る。
ない。
次に海軍の徴用の船員名簿を見る。
やはりない。
最後に船舶管理協会の名簿を見る。
「あ、ありました! こ、これです。」
俺は思わず大きな声で名簿の祖父の名前のところを
指差して叫んでしまった。
間違いなく、そこにたった一行ではあったけれど
名簿にはちゃんと祖父の死亡事情が簡潔に記されていた。
少なくとも戦没した船員の名簿の中に
その名はちゃんとあったのだ。
たった一行の記録ではあったけれども、その記録は祖父が
明治26年9月1日の生まれであったこと。
(俺と同じ乙女座だったわけだ。笑)
死亡時の船の中での役職、当時のうちの家の住まいの場所、
同時に亡くなった船員の人数など、今までオヤジから
聞いていなかった新しいことがいろいろと分かった。
その名簿の一行は、確かにそこにあるのは他の行と
同じような文字の羅列でしかなかったけれど、
俺にとっては何物にも代えがたい
本当に深い意味のある一行だった。
「うちの祖父は木浦の沖で亡くなったのですが。」
「実はそういう輸送船の船団は大抵、北九州の門司で
まとめられて出発したのです。」
「門司が出発地点だったのですか。」
「そうです。そうしてまず大急ぎで対馬海峡を
越えて、謙介さんのおじいさんが亡くなられた
木浦の沖からずっと朝鮮半島を北上するのです。」
「え? それは全部の船団がそうなんですか。」
「そうです。最終的に南方に行く船団もすべてこの
コースです。そうして、朝鮮半島沿いからリャオトン半島の
青島(チンタオ)を目指してまた大急ぎで黄海を渡ります。
それから大陸沿いに上海から台湾に下りてくるわけです。
台湾から南にここでまた海峡を大急ぎで渡って
フィリピンに行く。そこから、南洋諸島を目指すもの、
西南方向のスマトラとかボルネオを目指すもの、
というふうに分かれていったわけです。」
「すごい大回りのコースですけど、鹿児島から
沖縄へ、というコースでは輸送船は航海
しなかったのですか? 」
「そんな行き方だとアメリカ軍の攻撃を
受けるのはもう分かりすぎていましたから
そんなコースでは船は航海しませんでした。」
大抵の人は太平洋戦争中に沈んだ、亡くなった、
といえば、軍艦を想像するかもしれない。
後、まぁ、一般の商船で沈んだ、といえば
沖縄の学童疎開の小学生たちが多く犠牲になった
対馬丸、ぐらいの想像になるのではないか、と
思うのだけど、実際に戦争の犠牲で沈んだ船は
ものすごい数のものすごいトン数に上る。
一般の商船で空襲にあって沈んだ船は7,240隻。
(壁面の写真はそうした戦乱の中でアメリカ軍の攻撃に遭って
沈没してしまった船の写真のごく一部。写真はその船が攻撃されて
沈められた年月日順に並んでいる。まずAから下に行って、次の列
の上に行って、また下まで行って、それから次の列、というふうに。)
うちの祖父のように犠牲になって死んだ船員は
きちんと記録に残っている人だけで60,331名。
しかも、その中の987名は小学校を出て、さらに
2年の高等科という学校を出た後、たった2ヶ月の
課程の海員学校を出て、14歳で船に乗り組み、
はじめて乗った船でそのまま空襲を受けて沈んで
死んでしまった子どもたちだった。今なら中学生
だよね。
しかも軍人はそうして徴用しておいた船の船員なんて
一人の人間とはさらさら思わず、単なる
輸送手段の道具としか思わなかった。
「皇軍の軍部にとっては、そうした輸送に従事する
人間なんて「馬方・船方」と言って、差別の対象と
してしかなかったですからね。戦争をする軍人だけが
偉くて、後は、、もうねぇ、、。」という話だった。
こうした軍部の横暴や勝手な行為があまりにひどかった
ために、ある輸送船の船長さんは
「商船乗りは 日章旗のもとでは死するとも
軍艦旗のもとでは 死なじ 」という言葉さえ
日記の中に書き残していた、という。
あのね、文法的に説明すると死なじ、の「じ」
は「打消しの意志」をあらわすんだよ。
意志だからさ、ちょっとそう思った、とかいうような軽く言うのではなくて
ものすごく強い決意なわけよ。
「絶対に軍艦旗のもとでは、死んでなんかやるもんか。」
というほどの意味になると思う。
「原爆許すまじ」の「じ」と同じ用法ね。
原爆許すまじ、は原爆を絶対に許さないぞ、
っていう意味でしょ。
その「じ」と同じ。
もうね、俺、この船長さんの言葉の最後の「じ」を
見た時にさ、よほど軍人からひどいことをされたんだな、
って思った。
でないと「じ」なんか遣わないもの。
やっぱりものすごい意志がそこに働いていたんだ、って、
俺、その言葉を見て感じたんだよ。
資料館の話、もうちょっと続けたいと思います。ただ今日は
長くなったのでここまでにします。
× ×
一体いつになったら返金があるの?
責任者でてこい、って、昨日NHKにガンガン言ったら
さっと払いすぎのお金が戻ってきた。
一体どうなっているのだろう。
黙っていたら、いつまでかかっていたのだろう。
言わないとおりない仕組みなんだろうか。
しかしさぁ、この程度の手続きに半年もかかる
なんていうのは問題外だよ。
普通の会社でこんな「ちんたらちんたら」決裁してたら
取引停止、って言われると思うよ。
「上方のはなし」カテゴリの記事
- 本当に速くなったのか?(2016.10.17)
- 止めるけど続けるんだって(2016.07.05)
- 阿倍野ハルカ○って微妙だと思う。(2014.03.17)
- 巡礼旅(7)(2013.05.28)
- 巡礼旅(6)(2013.05.27)
Comments
謙介さん
「もうひとつの故郷」のことも思い出しましたよ。
Posted by: エト | 09. 09. 25 PM 10:23
----エトさん
ありがとうございます。取材が後先になってしまったんですが。(笑) あの小説を書いたころは、実は神戸にこんな資料館があるなんて知らなかったんですよ。知ってたら真っ先に行ってた、とは思うんですが。で、こちらが後になってしまったのですが、気持ちの上では長く引っかかっていたものが、ようやっとひとつの整理がついた、という感じでした。
Posted by: 謙介 | 09. 09. 25 PM 10:57