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09. 06. 19

ぷがじゃ

今日は「ぷがじゃ」について。
ぷがじゃ、というのは雑誌の名前。

1970年代から80年代の前半、
近畿地方で暮らしていた人は、
おそらく一度ならず見たことがある
雑誌だと思う。
見た、というのか、たいていの
本屋に行けば、レジの横あたりに
重ねて置いてあったような気がする。
定価は100円。

その「ぷがじゃ」だけど
正しくは「プレイガイドジャーナル」というタイトル。
でも、何せ端折って言うのが得意な、いらち(気短)の人が
多い近畿地方の雑誌だからさ、「プレイガイドジャーナル」なんて
正式名称では呼ばれることはなくて、みんな
ぷがじゃ、って呼んでた。
雑誌の編集部自体も「ぷがじゃ」と、呼んでいたし、
それでみんな通っていたように思う。

それでその内容といえば、
雑誌のタイトルからなんとなく想像がつくと思うのだけど、
映画館での映画の上映スケジュールから、
大学とか何かのイベントの中である映画の自主上映会の
スケジュール。洋楽・邦楽(ここでいう言う邦楽は
本当の琴・三味線の入った音楽ね。)といった
コンサートの情報から、
京阪神のどこかで開催されるさまざまなイベントの予告、
本の書評、もうほんとに雑誌は小さなものだったけど
その守備範囲はものすごく広かった、という気がする。
例えば、イベントの状況だけでなくて、
編集部の人がいろいろな現場に行って取材したことを
まとめたルポルタージュみたいなものもあったりしたんだ。
こんなの。


Pugajya3

これは大阪府立中之島図書館に行って
本の修理をしている人に取材をして
その時のことをまとめた文章。

この回は本の修理だったけど、
別の回は鋸の目立て(って分かる?)、
金庫を開ける、などというふうな特集が
それぞれあって、それがイラストともに
おもしろい文章で書かれてあって
毎回楽しみだった。

それから当時はもちろんレコードだったのだけど
新しいアルバムを出したら、その作った人に
文章を書かせてたり、インタビューをしていたり。
そのインタビューも通りいっぺんの、
新しいアルバム出しました。
テーマはこれです。
聞いてくださいねー
っていうようなものではなくて、
作り手は今、こういうことに興味があって
そこで、こういうテーマでアルバムを作ってみたんだけど
その中には、こういうテーマをまた別の角度で
こう膨らましてみたりして、いる、
というふうな割と細かい分析というか
解説があったりしてる。

あんな小さなスペースにこんなにまで密度の濃い
文章を書いて、読んでる人にわかってもらえるの?
という心配も多少はあったけど、そんなことお構い
なしに、書き手は自分の書きたい方向で
決してレベルを下げたりすることなく書いてあって
それが毎回すごくおもしろかった。

この雑誌を俺が取っておこうと思った理由というのは、
単にイベント情報を次々と紹介する、
というような情報を消耗品と割り切っている部分も
あったけど、
その反面、その中で遺していくべきもの、とか、時代の変化の
中で、その時々の人は、こんなことを見ていて、こんなことを
考えていたのだ、という記録を残して
くれているからでもあったから。


今、謙介の手許にあるのは、
1981年の秋から1982年にかけてのものだ。
そうして1982年の12月号をもって
慣れ親しんだ版型(B6)
からひとまわり大きなB5のものになってしまった。
その旧のサイズの最終号がこれ。

Pugajya

最終号の巻頭作品は、ムラカミさんのエッセー。
ちょうどこの頃にムラカミさんのデビュー作が
出てきて、それが映画化される、ということも
あったしね。

Pugajya2

映画の広告のコピーにも「神戸でオールロケ敢行!」
っていうふうに書かれているんだけど
(京阪神の雑誌だった、ということも大きく影響は
してるとは思うけど)ムラカミさんが
神戸出身の人だ、と言う捉え方がされている。
関西の人やし、いわば地元の人やし、
盛り立てていってあげなあかん、という雰囲気。

また、そんな応援にムラカミさんも応える意図も
あって、ぷがじゃの巻頭エッセーを書いたんじゃないかなぁ、
って思う。

ただね、俺そのころずっとぷがじゃを読んでいたのだけど
ぷがじゃ自身の内容が一番よかったなぁ、って
思うのは、1977年ごろから80年あたりまでのような
気がする。
だから今、残してある部分は、残念ながらその後、
ということになるんだけど。
まだね、1977年ごろって、映画も演劇もいろんな
文化的なサークルもまだ方向性というのが
さっぱりなくて、なかった分、パラレルワールドというのか(笑)
ごっちゃまぜで混沌としていた。
でも、それは決して悪いことではなくてね。
その訳のわかんなかった分、何でもあり、
っていうたくましさとか面白さはあったと思う。

たとえば、今、大抵の人は知ってると思うけど、
大阪のミナミにアメ村(アメリカ村)があるよね。

大阪のアメ村ができたのって、1977年ごろ
なんだよ。その辺からぼつぼつあの辺に
お店ができはじめて、、やがてそれが
次第次第に変化していくんだけどさ。

そういうふうにまだ形にはなっていなくて
なんだかわかんないけど、でも
パワーはあって、それがむちゃくちゃな方向で
てんでバラバラに
動いている、と。そういうものがあっちこっちに
あったのが1977年あたりから80年くらい
まででさ。

それが1980年ごろから、次第に形が整えられて
いくんだ。
見栄えというのか、形は整えられて、それなりの
ものができはじめたし、方向性も大体こうでしょうね、
というのがだんだん見えてきて、あ、こういうことか、
っていうのがわかってはきたけどさ。

でもね、皮肉なもので、はっきりと方向性が
分かっていくにつれて、謙介には全然面白さがなくなった
気がした。カオスの力強さがなくなってしまってさ。
なんだかみんなこぎれいにまとまってしまって、、。
それはぷがじゃの誌面にも現れていたような
気がする。
80年過ぎたあたりで思ったの。
「何や最近のぷがじゃ、前に較べて
おもしろなくなってきたんと違う? 」とかって。
実際そういう話も友達と何度かした。

そのまとまる前、っていうのは、何が出てくるやら
わかんない時代で、それがこちらにも
すごく刺激的だったんだけどね。

もうねぇ、毎日が24時間では全然足りない、っていうのか
ドキドキしながら毎日過ごしていた、という記憶がある。

今、手許にある1981年から82年にかけての
ぷがじゃを眺めていると、それでも結構おもしろい。
あ、もうちょっと前のものも取っておくべきだったなぁ、と
ちょっと後悔をしたりしながら時間の経つのを忘れて
しばし「ぷがじゃ」を眺めていたのだった。


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Comments

謙介さんこんばんは
興味深く写真を拝見しました。
拡大して読めるところまで読みました(笑)。

風の歌を聴け、小林薫主演ですね。
ちなみにムラカミさんは映画本編についてもなにか語っているのでしょうか?
これ以降2005年の『トニー滝谷』まで大手の映画化にはOKを出さなくなるのでちょっと気になりました。

そういえばヒシさんのところで接近遭遇したときもムラカミさんの話題でしたね。その節は突然"上の人"だなんて失礼しました。
こちらこそよろしくお願いいたします。


Posted by: わも | 09. 06. 22 AM 2:09

---わもさん
 実はこの処女作というか、最初のこの作品の映画化も、ムラカミさんご本人は納得していなかったようですね。原作者の頭の中にあったイメージと、監督の大森さんの中のイメージとがどうも大幅に違っていたようで、後から、何かの本で読んだのですが、ムラカミさん本人が、あれは、全然ボクの描いていたイメージとは違っていた、という失望の気持ちを述べられていました。おそらく、こういう失敗があったから、次の映画化にはものすごく慎重になって、そういう長い年月がかかったのだろう、と思います。小林薫さんもねぇ、、あれま、というくらい若いです。(笑)
 あ、上の人、って、、、実際そういう位置関係で書かれていたのですから、それで全然間違ってないと思います。(笑) こちらこそこれからもどうぞよろしくお願いします。

Posted by: 謙介 | 09. 06. 22 PM 9:46

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