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09. 04. 27

高知の街で(その2)

今日は高知出身の人、ふたりの話です。


沢田マンションを見学した後、今度は友達の家に戻って
置かせていただいておいた車に乗ります。
友達はもうコンサートホールに行っていて
今頃はリハーサルをそろそろ、という時間かな、と思いました。

車を出して、まずは、
南に走って一度、とでんの電車通りに出ます。
高知で「とでん」と言えば、土佐電鉄です。
とでんの電車通りを東に走り、播磨屋橋の交差点を
少し東に行った知寄町で今度は右折して
南に走ります。
ファミレスとコンビニの共通の広い駐車場が
あったので、そこに車を停めます。
少し歩くと、正面に五台山が見えます。
そう、播磨屋橋でかんざしを買った純信のいた
お寺のある五台山です。
今もこの山の頂上には五台山竹林寺がありますし、
前に行った牧野富太郎記念県立植物園もあります。
ここから五台山までは青柳橋で一直線です。


Aoyagibashi

その橋のたもとに実は記念碑があります。
実はその記念碑を見にきたわけです。


Ishibumi1

田内千鶴子さんというひとりの女性の記念碑です。
田内さんは、1912年(大正元年)に この碑の建っている場所から西に600メートル
ほど行った今の高知市若松町で生まれました。
7歳の時にお父さんが朝鮮半島の
全羅南道(ちょるらなむど)の木浦(もっぽ)で
役人をしていたので、木浦に移住します。

木浦と聞いても、なじみがないかもしれませんが、
天童よし○の「珍島物語」の歌の珍島がある街、
といえば、少しはああ、そうですか、
ということになるかもしれませんね。
朝鮮半島の南西部の港町です。
港町のせいでしょうか、ヤク○とお妾さんの多い街です。

田内さんが20歳のとき、お父さんが木浦で亡くなってしまいます。
彼女のお母さんは助産師として、また彼女も学校を卒業した後、
木浦貞明女学校で音楽の先生として、
学校づとめをします。その傍ら、孤児院に行って、
ボランティアで孤児たちの世話をするようになって
いたのでした。
やがて、その孤児院の世話をしていた牧師さん尹致浩(ユンチホ)
さんと結婚をすることに
なりました。孤児院の経営は本当に大変で、
千鶴子さんも嫁入り道具をお金にかえて、子どもたちの
生活資金に回した、といいます。

太平洋戦争で朝鮮半島は戦場にはなりはしなかったのですが
木浦は日本への物資の積み出し港で、物資の困窮が
ひどい日本本土に向けて、半島の物資が送られる基地でした。
特に全羅道は韓国でも指折りの穀倉地帯でしたから
お米が日本に向けて送られる場所でした。

しかし、陸地こそ戦場にはなりはしませんでしたが、海上の
制海権はとっくの昔に日本は奪われていました。

俺の祖父は中国への輸送船の航海士として船に乗っていて、
この木浦の沖の黄海上でアメリカの潜水艦に魚雷攻撃を
受けて、そのまま船とともに亡くなりました。
木浦というと、俺はやはり祖父の死んだ海、という特別な
感慨をどうしても持ってしまいます。

やがて戦争は終わりました。それまで日本の植民地だった
朝鮮半島は、かの地の人によって新しい国が建てられました。
日本人がいつまでも残る、というのは危険、ということで
田内さんは、おかあさんと一度、高知に帰ります。
しかし、子ども達のことがどうしても心配で
彼女はとうとう密航をして木浦へと戻ったそうです。


そのころから朝鮮半島は北と南に分かれて政治的な
対立を深めていきます。そうしてその北と南の対立がもとになって
新たな戦争がはじまってしまいます。6.25(ユギオ)です。
日本で朝鮮戦争と言われているあの戦いですね。

中国の支援を受けた北朝鮮の軍隊は、朝鮮半島を
北から南へと制圧していきました。
一時はとうとう、韓国側の守っている街は一番南の釜山だけ
という状況にまでなっていました。

さっきも言ったように北から中国軍の助力を得た北朝鮮軍が
南のこの木浦も占領してきました。とうとう、彼女のいた
この孤児院にも北の兵士が来たそうです。そうして
日本人であった彼女に銃口を向けた、と。
そのとき、近所にいた人たちが、「彼女は貧しい人たちの味方だ。
ずっと親身になって世話をしてきたんだ。こんな人を殺すのか?」
と口々に北の兵士に詰め寄って、言ったそうです。そうして彼女は
助かりました。

そんな戦乱のさなかでも尹致浩牧師と田内さんはこの木浦の街で
孤児院を守っていました。
夫の 尹牧師はそんな中、食料調達に行く、といって
でかけ、そのままとうとう帰ってこなかったのです。
後には孤児と田内さんが残りました。
それから田内さんは文字通り孤軍奮闘がはじまったのでした。
家財を全て売り払い、何とか孤児を育てていきます。
千鶴子という日本名を、鶴子「はくちゃ」という韓国読みにして
韓国人になりきっての孤児院での世話をはじめました。
戦争で家族を失った孤児がどんどんこの孤児院に引き取られた、と
いいます。そうして、その戦争で孤児院の人数は500人にまで
脹らんだそうです。
ようやく1953年、戦いは一応停戦にはなりました。

そうしてその「停戦」は今もなお、そのままです。
名目上、朝鮮戦争は今も継続したままなのです。
終わっていないのです。今も板門店で行われているのは
停戦の話です。

俺がソウルにいた頃は、月に一度民防衛(ミンバンゥエイ)の日、
というのがあって、防空訓練をしていました。この日はソウルの
街の主要な場所に訓練を知らせる旗が立てられて、その旗が
引っ込むまでは家の外に出てはいけない、ということになっていました。
そういう訓練の日が、ちょっと前まで実際にあったんですよ。

まぁそれはともかく、朝鮮戦争停戦後の混乱期の中、
どんどん脹らんでゆく孤児院の子どもたちを彼女は
必死で世話をしました。、子どもたちもまた、街頭でくつみがき
をしたりして園の会計を少しでも何とかしようとがんばった
そうです。
そうした長年の彼女の働きは、人々の知るところとなって
1963年、当時の朴正煕大統領は彼女に、日本人に
はじめての文化勲章を授与しました。

実はこのころ、まだ韓国と日本は国交がありませんでした。
韓国と日本が国交を結ぶのは1965年のことです。
まだまだ反日の感情も強く、「何でそんな日本人なんかに
勲章を与えるのだ。」という声もあったそうですが
「長きにわたって孤児3000人もの世話を一心にしてきた
彼女に、どうして勲章を差し上げてはいけないのか。」
と大統領は反論して、彼女に勲章を授与しました。
日本政府もまた永年の社会福祉活動への
功績を讃え、1965年、
彼女に藍綬褒章を授与しています。

ただそれが、やがての日韓国交回復の地ならしになった
という面は多少なりともありはしますが、まぁここでは
朴正煕大統領の言に素直に従うことにしますか。


しかし、長年の苦労は彼女の身体を蝕んでいたようです。
そのころから少しずつ体力が弱っていきました。
肺にがんが発見された、ということでした。
そうして1968年の10月31日。彼女は亡くなりました。

彼女の死が報じられるやいなや、木浦市は
彼女の葬儀を木浦市最初の市民葬にすることを決定したと
いいます。
そうしてその葬儀には、韓国本土からその木浦の街に
彼女の死を悼む人が次々に押し寄せ、その数3万人に及んだ
と当時の記録は伝えています。

彼女の長年にわたる献身的な奉仕の気持ちは
かの地の人たちの心にも十分に伝わっていたのですね。
そんな日本人がこの高知に生まれていて
その彼女の業績を後世に顕彰するためにこの記念碑が
建てられたわけです。
記念碑の下に小石が埋められているのが
見えると思います。
その数3000だそうです。つまり彼女が
世話をした子どもの数、ということをあらわしているのだそうです。


石碑の横には、彼女の略歴を記した別の
碑も建っています。(たうち ちじゅこ とあります。
韓国語には「づ」の発音はありません。
一行目もこうちしわかますちょ、とあります。
「つ」の発音も韓国語にはない発音なので、
どうしてもこういうことなってしまいます。)

Ishibumi2

そして今も木浦の街には彼女の残した
孤児院があります。今は彼女の外孫にあたる女性が
中心となって、活動をすすめている、と聞いています。

この記念碑は西に向かって建てられています。
高知から西、そうです。木浦の街の方角を向いて
この碑は建てられている、というわけです。

彼女の生涯は、少し前に「愛の黙示録」というタイトルで
映画化されましたよね。石田えりが田内さんの役でしたが
(友達はなんぼなんでも美化しすぎ、と言っていた。)
ごらんになった方もおいでかもしれません。

ここを見学して、再び車に乗り、今度は青柳橋を渡って
五台山のふもとを走ります。
そうしてさらに南に。再び川を渡って、田んぼの真ん中を走りぬけ
着いたのがここです。

Hamaguchi1

高知市浜口雄幸生家記念館。


Hamaguchi2


戦前、日本の首相だった浜口雄幸の生家です。
前の田内さんとは違って、浜口さんは首相だった人ですから
経歴とか、人となりは良く知られていると思うので
ここで繰り返すことはしません。

しかし、高知だなぁ、と思ったのは
この「雄幸」という名前です。
お父さんは「幸雄」という名前をつけようとして
役場に届け出ようとしたらしいのですが、
お父さん、酔っ払いすぎていて、わけが
わからなくなっていて、「幸雄」を間違って
「雄幸」と、ひっくり返した名前を書いてしまって届け出た
そうです。一度受理されて戸籍に載ってしまうと
よほどの理由がない限りは変更できません。
雄幸は受理され、正式に彼の名前になったそうです。

それから、俺は雄幸の読み方は「おさち」だろうと思って
いたのですが、記念館の中の音声の説明は
「おさぢ」と発音をしていました。


彼はこの家から高知中学まで毎日通った、と
記録にはあるのですが、ここから高知市内までは
6キロくらいあります。往復12キロ。
毎日毎日、乗り物もない時代ですから
交通手段は徒歩だけです。
行くだけなら行くでしょうが
行って授業を受けて、そうしてまた
帰ってこなければなりません。
うーん。一日でもダメのような気がします。

彼は三男だったために養子に出され、
浜口、という姓になるのですが、
もともとはこの水口家で生まれたそうです。
そうして養子に出てからもよくこの
水口の家に戻ってきていた、と
この館の資料の中にありました。
まだ少年だったころの勉強部屋だった
お蔵があります。

Hamaguchi5


母屋の玄関から見たお蔵です。
Hamaguchi52

こちらは母屋。

別棟の蔵は資料館となって、
浜口雄幸の資料が並べられています。


Hamaguchi7


これは雄幸の書いた色紙です。
浜口雄幸は書道を習っていますね。
この色紙だけ見ても、あ、これは字を習った人が
書いた字だ、ということが、ぱっと見て分かりました。
それも相当上手だと思います。


Hamaguchi6

手前にある色紙、「元旦や六十二年の事はじめ」
とあります。「め」は変体仮名で、「免」の字を
遣ってありますね。で、よみは「め」です。
この色紙を書いた半年後、彼は病気を悪化させ
亡くなります。


浜口首相の在任した時期もちょうど
世界も日本も大きな変化の只中にありました。
そのとき、浜口首相は軍事費を削り
その削ったお金で経済を活性化させる、という
大方針を持っていたわけですが
その軍事費を削る、ということが
右翼の連中には我慢がならなくて、
結局右翼の青年に東京駅で撃たれて
しまうわけです。

「いごっそう」と言われた頑固さ、
あきらめない意思。

銃弾に斃れたとき言った「男子の本懐」という言葉は
有名になりましたね。そのときは何とか一命を取りとめたのですが
「首相が長期療養をしていては国政が
おろそかになるではないか。
リーダーシップをとり、さっさと国会に出て来い。」
と反対党の党首に言われ、病を押して国会に
登院します。
その反対党の党首が鳩山一郎です。
そうそう。あの民主党のゆきおさんの
おじいさん。
そうした病を押しての
無理がたたって、浜口首相はとうとう怪我が悪化して
亡くなってしまいます。


その浜口首相が生まれたのが
五台山を望む山のかげにひっそりとある
小さな家だった、のです。

俺はこの記念館の前に置いてあったベンチに座って
いろいろなことを考えました。
先の田内さんも、この浜口元首相も
同じ部分があるように思いました。
「人として筋を通す。」ということだと思いました。
目の前に孤児がいたら放っておけない、ということ。
日本のあるべき方向はどう進むべきなのか。
いくつもの荒波はやってきますが
その荒波に決してひるまず、向かっていったのは
この土佐という風土が、ふたりの人となりの基礎を
育てた、という部分があったのではあったのでは
ないか、と、記念館の入り口にある
ベンチに腰掛けて、俺は考えたのでした。

周囲からはうぐいすの鳴き声がのどかに聞こえてきて
春まっさかり、の風情でした。


今日はここまでにします。


        


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Comments

 そういえば,田内千鶴子さんと同じく韓国に骨を埋めた李方子女史のお命日も間もなくですね。
 孤児と障害者福祉,どちらも尊いお志でした・・・

Posted by: Ikuno Hiroshi | 09. 04. 27 at 오후 10:08

---Ikuno HIroshi さん
そうでしたそうでした。今月末がパンジャさんのご命日でした。
俺が最初にソウルに行ったのが1985年だったのですが、その時はまだ、ご存命中で、王宮の楽善斎の近くまでガイドさんに案内されて行きましたら、「ここから向こうは、李方子さまのお住まいですから、見学はできません。」という話を聞いて、あ、ここにお住まいなのだ、というのを知った次第でした。田内さんといいパンジャさんの明暉園といい本当に一生をささげられた方二人ですね。

Posted by: 謙介 | 09. 04. 27 at 오후 11:50

謙介さんおはようございます。
素晴らしい事をなされたのにそんなに名をしられてない方っていらっしゃいますよね。
知人にもNGOのメンバーで紛争地域や被災地でボランティアをずっと続けている方があります。
時々募金活動のお手伝いをしたりするのですが、メディアでは決して報道されないような写真があり、言葉を失います。
世の中を変えて行くのはそのようなひとりひとりだと思います。
それにしても自分たちのリーダーを選ぶという事は大変な事で、首長の選挙の投票率が50数%で高いと言われるこの国の民度が心配です。

堀内の駅で書き込んでいたら、乗り換えを忘れそうになりました。
堀内駅の[電車が来ます]の音楽はカモメが翔んだです。

Posted by: ラジオガール | 09. 04. 28 at 오전 9:49

---ラジオガールさん
 高知と言うとほとんど反射的に「坂本龍馬」と言う人が多いのですが、彼だけが土佐の誇れる人物でもないと思います。今の世の中、何かと言う目立つ個性があって、外見が(笑)そこそこよくて、というような人にばかり目が行きがちですが、本当にすごい人、というのは決して目立たず、表に出るようなこともないかもしれません。
世の中って、本物とニセモノの人間がいるように思います。でも、本物はやはり何かしら、人をひきつけるものを持っているように思います。自分はそういう人間にはなれませんけれども、そういう人を見分けられる選択眼だけは持ちたいなぁ、と思います。

Posted by: 謙介 | 09. 04. 28 at 오후 11:27

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