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09. 04. 02

京洛攝陽来復春 その2

出町からだらだらと歩いてきて、とうとう市役所のある
寺町御池までやってきました。

Cityhall

横断歩道を渡って、ここからはアーケードのある寺町商店街です。
以前、この寺町の出口近く、本能寺の前に一時パチンコ屋が
あったことがあって、その時は本当にうんざりでした。
落ち着いた老舗の多い寺町で、異分子はひときわ
目立ち、行くたびに、まだやってるわ、と
思いました。
そのパチンコ屋は数年でつぶれて、
今は豪華なマンションが建っています。

そこから、少し行くと、書道用品とか、香道具、お茶道具の
鳩居堂(きゅうきょどう)があります。
ここでまた少し、かな書道用の筆や紙を見ました。

その辺から実は謙介、胸がドキドキしてきました。
実はずっとどうしようかなぁ、と思っていたことが
あったのです。
それはある方の消息を聞く、ということでした。
実はその方は謙介がとてもお世話になった方でした。
その方、5年前に肺がんが見つかって、がんの箇所を
すべて切除しました。
その時、主治医からは、もうこれで大丈夫ですよ、
というお墨付きをいただいた、と聞きました。
それが一昨年の冬、自覚症状はないものの、
ずっと血液検査をしていて、腫瘍マーカーの
値が急に上がってきた、と言って変だ、と言い出した
わけです。で、彼女は左京区にある大学病院の主治医に
お伺いをしました。
検査結果は、大したことありません、というものでした。
ですが、がん患者歴、20年以上の彼女はそれに
納得しなかったのです。別の病院に行き、さらに
検査をしてもらいました。結果分かったのは、がんが
脳と脊髄に転移していたことでした。

俺だって毎週がんセンターに通う身の上ですから、
肺がんが骨や脳に転移すれば、どうなるのか、
というのは、よく知っています。
今の医学では、骨に転移したがんは助かりません。
肺がんには、イレッサという抗がん剤が最近は承認されて
保険適用になっているのですが、その効力は個人差があって、
Aさんに投与して効力のあったものでも、Bさんにはさっぱり効かない、
なんていうこともあるわけです。(もちろん、
他の人は効かなかったけど、自分は効くかも、という
逆だってあるから、みんな一縷の望みに
かけるのですが。)

その方に会ったのは、ちょうど一年前の今頃のことでした。
転移が見つかったこと、その箇所が、脳と骨だったこと、
それがどういう意味を持つか、ということはもちろんその方もよく
知っておいででした。
一昨年の冬のこと。
急にAさんから電話がありました。
「あんた、書道の本、もろてくれる? 」
その本は、20年くらい前にその方が買った本で
当時の京都書壇の名人、と言われた書家が
すべて参加して、出品した創作作品を
一冊の本にしたものでした。
限定200部発行の豪華な本です。
その本を俺にもらってくれないか、と言うのです。
前々から身体の調子がよくない、ことはその当時も
伺っていたので、ひょっとしてこれは、と思いました。
けど、何も聞かず、俺はその本を
「かまへんのですか? 」
「ねえちゃんにもろて、いうてんけど、そんなもの、
私はいらんわ、ってことわられてん。そやし、
あんたやったら、もろてくれはるやろ、と思て。」
「はいはい。それでは受け取らせていただきます。」
ということで、その重い本は、俺の家にやってきたのでした。
おそらく、形見分け、ということもAさんの頭にあったかもしれません。


それでも俺と話しているその方はちっとも落ち込んでいなくて
意気軒昂そのものでした。
俺が、病院お見舞いに行きましょうか? と言ったら、
「元気になってからでいい。」とおっしゃいました。
元気な彼女しか知らない俺に、抗がん剤で
頭髪が抜け落ちてしまってやつれた病気の顔を
絶対見せたくはなかったのだと思います。
それとともに、もうその時お会いするのがおそらくは
最後になるだろう、という覚悟も
あったと思います。
返事はもらえないのは十分分かっていて
俺はその病院へ手紙を送りました。
もとより返事は来ませんでした。

そうして、今年になりました。
俺は思い余ってその方の家に電話をしました。
すると「この電話は現在使われておりません。」との
テープのアナウンスが電話の向こうから流れたのです。
その時に、あ、これは、おそらく、、と俺は思いました。
でもそれだけでは、まだ「おそらく、、」の状況です。
どうやって確かめよう、とも思いました。

その時に、ある本屋さんがその方と親戚だった、
ということを思い出したのです。
思い出しはしました。しかし、そのことをどうやって聞こう、と
思うとちょっと悩みました。
全然知らない人間が、いきなり店先で○○さんの消息に
ついて、って質問したら、それこそ個人情報はダダ漏れだわ
一体コイツはどこの誰や、と思われるのは明らかです。
でも、それしか方法はない。
だけど、聞いて、やはり、、となったら、どうしよう、、。

そういうふうな葛藤が俺の心の中にずっと在ったのです。
それで寺町を下るにつれてドキドキしていた、という
訳でした。

やがて、その本屋の前に来ました。

Boshoten1


京都在住の人、また、かつて京都に住んだことのある方なら、
すぐお分かりでしょう、この本屋。

Boshoten2

センセイも友達もよく知っている本屋なので
もちろん入っていきます。
レジを見ました。おばちゃんが座っています。
しばらく本を見て、欲しい本があったので
そのおばちゃんのところに持っていきました。
おばちゃんにお金を払って、包んでくださるのを
まって、俺は、思い切って聞いてみました。

「あの、つかぬことをお伺いするのですが、
右京区の○○にお住まいだった、Aさんなんですが
お元気なのですか? 」
そこまで聞くと、案の定おばちゃんの表情に
さっと警戒の色がさしたのがわかりました。

俺は説明をしました。
「Aさんには、前々からお世話になっていました。
肺がんで5年前に入院されたの時も○○病院まで
お見舞いにあがったんですよ。それで去年の
今頃、また病院に入院される、ということで
お会いしたのですが、それで、ご入院されて、、」
とまで俺が言うと、おばちゃんは、そこまで知っている
のであれば、これは言ってもいいだろう、と思ったのでしょう。
「Aさんは、去年、亡くならはったですよ。」と
きっぱりと俺に告げたのです。
「あ、やっぱり、そうですか。」
「おうちは、どうなってはるんですか? 」
「一人暮らし、でしたから、もう家は壊してしもうて
何もあらしませんわ。」

実は俺は、Aさんに去年最後にお会いした時に、
甥を養子にして跡継ぎにした、という話まで
聞いていたのでした。ですから、彼女が亡くなったので
あれば、彼女の仏壇なり位牌は、その甥の人の家に
あるだろう、ということも予想はつきました。
しかし、俺はその甥の人とは何の面識もありません。
ですから、何の面識もない人間がいきなり(まぁ事前に
何らかのごあいさつはするにせよ)
お伺いして、お参りする、というのは、そのご遺族から
見れば、うっとうしいことかもしれない、と俺は瞬間的に
推し量りました。
Aさん自身は、そういうあいさつとか礼儀に
うるさい人だったのですが、そういう部分については
甥ごさんは、全然無頓着で、困るえ、と話していたのを
覚えています。
そうすればなおさらのこと、俺みたいな知らない人間が
お線香をあげさせていただけないか、などと言えば、
「うっとうしいから嫌です。」ということにだってなると思いました。

Aさんが亡くなった、という事実はこれで
はっきりしました。最期がどうだったのか、
聞きたい気もしました。でも、それは
おそらくできない相談でしょう。
俺はそれでもうAさんのことは措くことにしよう、と
思いました。
「そうですか。やっぱり、、。ありがとうございました。」
とだけ俺は言って、ちょうど全部見終わったらしい
センセイと友達のところに行きました。
「何か、要る本あったか? 」とセンセイ。
「はぁ、新書で、1冊欲しいのがありましたので。」
「そうか。 ほな、もうええか? 」
「はい。」
センセイと俺たちはその店を出ました。
なにやら、どっと疲れが出ました。

「センセイ、ちょっと休憩していきましょう。」
Oくんがセンセイに言ってくれました。
「ああ、そやな。そうしたら、大○の下でよろしぃか? 」
「はい、もちろん。」
イノダの四条支店でちょいと休憩です。


Inoda

それから今度は少し歩いて烏丸まで。
ちょうどうまい具合に来た阪急の特急に乗りました。
河原町からだと座れたのでしょうが、あいにくと電車は
結構混んでいました。でもまぁ、桂ですから立っても大したことは
ありません。そうして桂で降りて、
その晩はセンセイの家に泊まらせていただいたのでした。

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Comments

 こういう「おそらく」を確定させるのは,心理的にかなりエネルギーを費やしたのでは・・・と。

 Aさんは残念でしたけど,これまでに謙介さんが描写されてきたお姿からすると,最後まで(意識がある間は)しっかりなさってたんじゃないでしょうかねえ。
 僕も,Aさんのように毅然としていたいな,と思います。

Posted by: Ikuno Hiroshi | 09. 04. 03 AM 12:48

----Ikuno Hiroshiさん
去年の暮れに、俺の仕事場のほうの家の電話の留守番電話、話も入らずに切れている、ということが4、5日続けてあったのです。今にして思えば、それがおそらくのこされたAさんのご家族からの連絡だった、と思っています。そのときから、少し思うところはあったのです。そうして、年賀状が来なかったり、電話が使われていない、ということになったり、と、少しずつ状況がわかっていたのでしたが、それでも、どこかに、たとえば、介護施設なんかに入ったから、今電話を切っているのだ、とか、思いたいところはあったのです。しかし、これで、もう、分かったので、、、。おっしゃって下さったように、やはりその間の「いろいろ」はありました。もちろん、今もないといえばうそになります。ですが、今まで本当にお世話になったことを、今度は別の形で別の人に俺はしていく責任があるようにも思っています。それがAさんから受けたご厚志を未来につないでいくことじゃないか、と思っているのです。

Posted by: 謙介 | 09. 04. 03 PM 12:47

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