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09. 04. 06

京洛攝陽来復春 その4

とうとうぶっ放してしまいましたね。
1970年代から80年代にかけて、
スパイを養成しなければいけない、という
頭に凝り固まった、百戦百勝のうぃってかん(偉大な)
すりょんにむ(首領さま)ジュニアは、外国に自国の諜報員を
潜入させて、外国の何も罪のない人たちを
連行してきました。俺がそのことを知ったのは
1989年。 もうお亡くなりになりましたけれど、韓国の映画監督で
やはり北に拉致された、申相玉(しんさんおく)監督と
奥さんの崔銀姫(ちぇ うに)さんの書いた「闇からの谺(こだま)」
という本からでした。
そのころすでに北朝鮮に拉致された家族を返せ、という運動は
起こっていました。俺もどこの駅前だったか署名
活動をされていたのを見たことがありました。

でも、そんなことがあっても当時の日本政府は
全く動こうとしませんでした。俺がその頃知っていた
某政党の人にも、そのことを話したら、色をなして叱られました。
「そんなことはあり得ない。」と。
「でもさー、ラングーンで爆発テロ事件起こさせて
韓国の首脳を皆殺しにするような国だもの。
そういうのだってあの国ならやるでしょ? 」
って言ったけど、「拉致なんかするはずがない。」
って、ガンガン怒鳴られましたよ。

だけど実際問題として
そこにいる人の人権が踏みにじられていると謙介は思いました。
しかし、イデオロギーがどうのこうので動けない。
じゃあ、目の前の人々の人権はどうなるのでしょう?
まずは、そこにいる人がどうすればその悲惨な状況から
一刻でも早く何とかされなければならないのでは
ないのですか?

俺が政治について期待を持たなくなったのはこんなことも
あったからでした。イデオロギーを持つのは
政党のアイデンティティでしょうから仕方ないのでしょう
けれど、そのために目が曇ってしまって、
あるはずのものを見えない、見ない、と言ったり、
実際、目の前で困っている人を救えないのでは
政治に何の意味があるのでしょうか?

世界中から何千人という罪のない人が拉致されて
かの国に連れて行かれてしまったわけです。
その人たちは今はどうなっているのでしょう。
かの国は、そういう人たちのその後の調査について
何の確約もしていません。
いや、正直言ってそんな調査なんてできっこないでしょう。
ただ単に時間稼ぎをして調べてみると言ったり、
高圧的な態度に出てみたり、、でも結局は
何もしないように思います。そんなことをした日には
自分の失敗を自らで暴かなかければ
ならないことになりますから。

国家の中枢、当時は元首ではないにせよ、ほとんど元首に
近い人間がそういう命令を下して、何の罪もない多くの人々を
勝手に連れていった。
しかもその責任者は今も何の責任も負わずにいる、
そのことはどう考えても許せないことです。

かの国の言葉には的確に表現する言葉があります。
「ぴょんしんのま」
「ぴょんしん」は病身。「のま」は野郎
「病気野郎」ということです。
自分の中の妄想を達成するために何の罪もない
人の人生をめちゃくちゃにしておいて、それでも
へっちゃら。それだけではありません。
人の気を惹いては、私はここにいるここにいる
と言って、でもこちらが何か反応したら、文句ばっかり言う。
ころころ機嫌を変える。悪いのは全部周囲で
自分は決して間違ってはいないと声高に言い立てる。
そんな迷惑野郎がのうのうとしている。
まったく度し難いぴょんしんのまだと俺は静かに怒っています。


さて。 一体いつまで続くなにわの話。(笑)
もう少しおつきあいください。
桃谷の「福○」でお昼をいただきました。
おなかいっぱいになったねぇ。
と満足して1階に下りてきました。
お金を払ったら下にいたヌナ(おねいさん)がガムを
くれました。出掛けに「カムサムニダ~」
といったら「イエ、コマップスムニダ。」(はい、どうもありがとう)
とヌナの声。久しぶりに自然な韓国語を聞きました。

午後からは、腹ごなしでしばらく歩いての調査です。
しばらく行って、今度は右折して、道を北に向かいます。
玉津3丁目の交差点を今度は西に。
JR環状線の高架下をくぐり、さらに西へ向かいます。
この辺から坂になって、土地は傾斜して上がっていきます。
これが上町(うえまち)の台地です。
鶴橋では高架を走っていた近鉄が、
この上町の台地の途中から地面に入っていきます。
上本町から今度は西に行くと台地は下りになります。
下がったところが谷町。
上町台地の下の裾になるから谷町なわけですね。
名前の由来、実際に歩くとなるほど、と理解
ができます。
上本町から西にある生国魂神社に行き、それから
南に歩いて、四天王寺まで出ました。
その間、歩きながらセンセイと本の話の続きです。
「あのことは入れたかなぁ。」
「入ってました。」
「あの部分はあれでよかったかなぁ。」
「ええんと違いますか。」
そんな話をしながら四天王寺まで来ました。
ここで、解散です。
「どうもありがとう。一応現場確認も資料の確認も
できたわ。」
センセイは天王寺から地下鉄で南森町で乗り換えて
淡路経由で京都に戻ります。
俺は帰りのバスが7時なので、まだ2時間ほど
時間がありました。
「俺、行きたいところがあんねん。」
「どこ? 」
「通天閣! 」と彼が言うので、俺も久しぶりやし、、
と思い一緒に行くことにしました。
歩いて西に行きます。
天王寺の大阪市立美術館を右に見て、だんだん道は
下り坂に。
来ました。 新世界の入り口、ジャンジャン横丁の入り口です。
右に曲がるとジャンジャン横丁ですが、左に曲がると
西成のあいり○地区というドヤ街に行きます。
それを抜けると飛田の本通り。遊郭の場所ですね。
角におまわりさんが立っています。
(この辺、正直、あまり治安はよろしくない、
のです。)
俺たちの気分も、ちょっと引き締まります。
入り口には、2007年に営業を休止したままの
フェスティバルゲートの廃墟が今もむなしく建っています。
隣のスパ・ワールドは今も盛況で、人もすごく多いのに
フェスティバルゲートは、狭い場所に遊園地を建てた
ために場所が限られていたため、遊具の更新も行われず
しかもUSJもできたりしたために次第に人気を失い、
人が入らなくなり、閉園してしまったのでした。

ここを右に。アーケードの中に入っていきます。
このアーケードの通りがジャンジャン横丁です。


Jyanjyan1


たいてい大阪に来る観光客の人は、道頓堀までは
来ると思いますが、新世界まで来る人はどうなんでしょうね。
謙介は、小さいときからオヤジに連れられて何度かこの
新世界に来たことがありました。
はじめて連れてきてもらったのは、たぶん小学校の
2年か3年の頃でした。
環状線の新今宮の駅を降りて、まず見たのは、
道路の歩道のところにそのままダンボールを
敷いて寝ているおっちゃんでした。
それはダンボールの家ではなくて、夏だったので
涼む目的で、そうしていたのだと思われました。
そのときは新世界ではじめてバナナの叩き売り
を見て、びっくりしたのも覚えています。
はじめてみたたたき売りのお兄さんは、何か
口調がダイナミックで、少し怖い印象だったことを
覚えています。
ジャンジャン横丁を歩いて行きます。
Oくんは今は引っ越して
三重県の名張に住んでいますが
彼はもともと大阪の西成区の
天下茶屋の出身なので、この辺は
わが庭のようなものでスタスタと歩いて行きます。
大阪から、三重に引っ越す人って結構多いのです。
特に、三重でも、近鉄沿線の伊勢中川
あたりまでは、ほとんど大阪府の延長
みたいなものです。
平井○さんもそうでしたよね。あの人も確か
もともと生まれは大阪で、途中から名張に引っ越していますよね。


以前に比べたら、ジャンジャン横丁も人通りが減ったように
思います。前はもっともっとにぎやかで
パチンコ屋もあって、本当に名前の通り
ジャンジャン、と人が通っていて
活気があったように思います。
今でも人通りは少なくはないですが、
それでも以前に比べたらずっと少なくなった
ように思います。

小学生の時に来た時、同じように
ジャンジャン横丁を歩いていて、たくさんの
串カツ屋がありました。(今もありますが)
オヤジに、あれ、食べたい、と言ったら、
「あれは衛生的にあかんから、やめとき。
何の肉やら分からへんし。」とか言われて食べさせて
もらえませんでした。
今は、すっかりおっさんになってしまったので、
食べてみたいなぁと再び思ったわけです。(笑)
でも、その前にOくんは「通天閣に上がりたいねん。」
といいます。
そういえば、何年ぶりでしょう? 
俺も最近は上ったことがありませんでした。
久しぶりに、と思っているうちに
いつかジャンジャン横丁を抜けて、新世界に入って
いました。
新世界は、結構な人出でした。


Sinsekai2


大阪ではふぐのことを「鉄砲」といいます。
え? 何で鉄砲か?
「鉄砲の弾もふぐの毒も当たったら死ぬ。」
まぁ、そのしゃれです。
鉄砲のチリ鍋が「てっちり」、鉄砲の刺身が「てっさ」
もうふぐ鍋のシーズンもおしまいですが、相変わらず
にぎやかでしたよ。

さて。ここを曲がると、じゃーん。見えました。


Shinsekai1


通天閣です。
実は二人とも、正直、通天閣なんて、さびれているだろうと
たかをくくっていたのです。
あんなところ、上るのは俺たちくらいのものだろう。
すぐにでも、、上がれるぞ、とおもっていたのです。

Tsutenkaku


がーん。
ただいま、展望台まで40分待ちでございます、との表示。
なんで?
どうして?

そう言ったって、40分待たないと、上れません。
なぜ40分かといえば、俺たちのように上がって
みたい、と言うものずきなやつ人がいたからでしょう。
待ちましたよ。
ええ。待ちましたともさ。

で、エレベーターで上がって、到着しましたぁ。

南方面の景色です。

下は新世界から、飛田、堺方面ですね。


Tsutenkaku4

東方面の景色です。
正面の横長の建物が、天王寺公園の中にある大阪市美術館
その向こうにぬぼーーっと屹立しているのが近鉄あべの百貨店です。

Tsutenkaku2

はるかかなたに生駒山がすっきりと見えます。
その向こうは奈良盆地です。


幸運の神さまビリケンさんです。
Tsutenkaku3

今年でビリケンさんは、生誕100周年だそうです。
足をなでると運が向いてくるとか。
そのせいか、足の磨耗がすごい。
足をなでてみたのですが、果たして
運は向いてくるのか???

この後、エレベーターで再び下まで降りました。
並んだ時間が小一時間で、見学した時間が
わずかに10分というのは、もったいないのですが
この後、串カツを食べて、バスターミナルまで
行く、という時間を逆算すると、時間があまり
ないのでした。

串カツ屋も並んでいて、え? また時間がかかるか?
とも思いましたが、それでも、
出る人も多くて、割とさっさと自分の番がきて、カウンター
につくことができました。
ここではあんまりはしゃいで写真を撮るのも気がひけたので
写真はありません。串カツのソース、二度づけなし、
というのは有名な注意書きですよね。(笑う)

串カツを食べ終わった後で、環状線の新今宮の駅で
Oくんと別れました。
Oくんは地下鉄の動物園前から、地下鉄の難波に行きます。
難波から近鉄にお乗換えです。
俺は、JRの難波行きます。
この二つの駅、同じ難波なのですが、微妙に離れていて
歩くとなると結構距離があります。
「ほならな。」ということで二人別れました。
うまい具合にJR難波行きの電車がきて、ほどなく
難波に着きました。
難波駅のバスターミナルの地下広場では
たまたまジャズのコンサートをしていました。


Jazz


電車がさっときてくれたので、少し時間があって
コンサートの立ち見をすることができました。

こうして7時2分発のバスで大阪を経って
9時40分(バスがやたら飛ばして
定刻よりずいぶん早く。)実家に戻ることが
できました。

長々とお付き合いくださいましてありがとうございました。
しかし、考えてみると、京都御所から、ジャンジャン横丁まで。
考えたら本当に興味深い社会見学ができました。

4回に分けて掲載いたしました、「京洛攝陽来復春」
ひとまずこれにて大団円でございます。

(今日聴いた音楽 そりゃもうこれしかございません。
村田英雄歌 王将 1985年盤 
しかし、なぜこんなものを持っているのか。笑)

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