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09. 03. 05

2149個の記録 (おまけ)

すいません。今日の話も結構面倒くさい
話です。 え? いつものことやないか、って?
はい。(←素直に認めている。笑)

今、奈良の東大寺では修二会の行をしています。
修二会、というよりお水取り、と言ったほうが
普通の人には分かりやすいかもしれません。

修二会と言えば、東大寺、と思うかもしれませんが
修二会という行事に限って言えば、何も東大寺だけの
行事ではありません。東大寺のご近所の興福寺でも
この儀式を行っています。
ただ東大寺の行事は二月堂というすぐれた舞台装置が
あって、「おたいまつ」というような派手な儀式が
あるために、東大寺のほうに目がいってしまいはするのですが。
あの東大寺の行事は歴史的に見ると
さまざまな行事が重層的に重なって
今のあのスタイルになったと思われます。

大きく言えば、ひとつは
「悔過」という意味があると思います。
悔過、と書いて読みは「けか」とよみます。
意味は「罪障懺悔」の行事、と言えばいいでしょうか。
悔過の行事そのものは、いろいろな形があって
吉祥天をおまつりして行う吉祥悔過というのも
ありますし、阿弥陀さまをおまつりして行う
阿弥陀悔過という行事もあります。
しかし、この2月、3月に行う悔過が中でも歴史的に
時期的に重い意味を持っていたと思います。

この悔過の行事を通して疫病を鎮め、
死霊を鎮魂する儀礼だったのです。
なぜ、それをこの時期にしたのか。
それはそういう悪い霊が害虫になって稲作や畑作に害を
与えると考えていたからでした。
そういう害をなす霊を鎮める、という意味が
あったと考えられます。
練行衆の僧たちはお堂に籠って、一心に経をあげます。
これは文字通りの忌み籠りだったと思います。
そうして忌み籠りを行って、その間、一心に
経をあげ、さまざまな霊に対して鎮魂の儀礼を
行ったわけです。
そうしておいて悪い霊の力を抑えたら、次には
いよいよ若水を汲むという行事ですね。

水を汲むわけで、文字通りの「お水取り」ですが。
東大寺の若狭井という井戸から水を汲みます。
新しい年になって、新たな水を汲む。
その水には霊力が宿っていると古の人は
考えたのでしょう。
これは別に東大寺でなくても今も田舎に行けば
その家の長が、井戸に行って新しい年のはじめに水を汲む
という儀式があるところがあります。
新たな力のこもった水を汲み、その水の霊力によって
悪い霊を抑える働きをより強くしようとしたもの、
と考えられます。
その若水汲みの行事の意味がふたつめ。

お水取りが終われば、春が来る、というのは
言葉の上でだけではなくて、
そうした新しい年になった、という意味も
こめられている、と思います。

東大寺はかつて日本の仏教の中心の寺でした。
仏教を国の宗教としていていた時期が日本には
あります。だから東大寺で国の平安を祈った、と
いうことでしょうね。国の平安には、悪霊が悪さを
しないで、農作物が豊かに稔ることがまず、第一の
必要な条件でした。そういう意味で、農耕の開始時期
直前にそういう儀式を行った、と。これがこの時期に
東大寺で行う儀式の意味だろうと思います。

ですから、この修二会も、鎮魂と再生の
行事と言えば言えなくもありません。

今日は、俺の専門の話になってしまって
いつも以上に堅い話になってしまいました。
ながながとお付き合いくださって感謝感謝です。


やれやれ。これで果たしてゲイブログといえるの
でしょうか。
全然浮いた話のひとつもありませんなぁ。(笑)
官能的な描写が出てくるわけでなく、
イケメンの写真でもあるわけでなく。(笑)
そんなブログに、おつきあいくださいまして
本当にありがとうございます。


前回のおくりびとの映画の話でひとつ
言い忘れていたこと。

冒頭の第九のついてもうひとつ
考えることがありました。
それは俺自身、もう20年以上この
シラー作詞の歌を歌ってきて思ったのですが
「生の喜びを歌う歌だ。」ということです。
生きること、そうして今、生あることを
讃える歌です。

最初の最初にこの音楽の演奏を持ってきたのは、
そうした生への喜び、というメタファー(暗喩)ということを
意図していたことかどうかは知りません。

しかし、生への喜びの歌を映画の冒頭に持って
きたことで、この映画は死んでゆく人、
その周囲を描いてはいるけれども、
それはまた、そこから立ち上がってくる新たな
力強い生への希望がありますよ、という
方向付けはできた、と思いました。
自分を捨てた父親を赦すこと。
近く生まれてくるだろう自分の子。
それはひとつの命の大きな流れでも
あります。生への希望。
そうした思いにきっと外国の人も
国を超えて、深い思いを感じたのだろう、
と思いました。

管弦楽曲なんて、本当にやまほどある中から
第九を持ってきたのは、本当にいい選択でした。

ただ、おくりびとの映画、すべてがすべていいとも
思いませんでした。
たとえば、主人公が仕事を覚えていく場面が
あまりに少なすぎたのではないか、とも
思うのです。
その場面、河原でチェロを弾きながら
歳月の経過を表現させていましたが、
あれでは、少なすぎると思いました。
誰しも仕事の失敗とかうまく行かなかったこと
ってたくさんあるように思います。


でもそうした失敗の中から何かを学んだり
人としてさらに大きくなることができる、と。
そうした仕事の上での試行錯誤の場面が
あまりに少なかった。

ちょっとそのあたりを急ぎすぎた、
そんな不満はありました。

しかし、俺がかつて論文をまとめたときにも
思ったことですが、よく死を考えることは
改めて自分の生き方とか生について
考えるいい機会になりました。
死を通して、自分の人生を丁寧に生きる
ということが、日常のだらだら生活の中で
いつか見失っていたように思いました。

そんなことで、この映画を通して
いろいろな思いを改めて考えたり感じたり
することができたように思いました。


(今日聞いた音楽 
 JR西日○ 島本駅、列車接近の警報音
 「ゆうつべ」にたくさんあります。著作権のことも
 ありますし、貼りはしなかったのですけれど。)

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