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09. 03. 23

もうひとりの自分とか自分探しとか

うちの仕事場の資料室に朝日のアエ〇が置いてあって
先週出た号の表紙がこの方だったので
ふと思い出したこと。

Nakatasan


確かこの人がサッカー選手を引退したときの
言葉が「自分探し」というような言葉だったか、と
思う。
あれから、何年か経ったのだけど、
果たして彼が言っていたところの「自分」っていうのは
見つかったのかなぁ、と、この雑誌の表紙を見て
思い出した。
時々いろんなところで「もうひとりの自分」っていう言葉を
耳にしたりするのだけど、
俺は、正直すごくうそ臭い言葉だと思う。

「こんな自分じゃない!
本当の自分は、まだどういうものかは
分からない、だけど、どう考えたって
今、目の前にいるような自分では決してないんだ。
どこかにもうひとりの自分がいて、それが本当の
自分なんだ。」

もうひとりの自分、っていう言葉を口にする人は
大抵そういうふうに言う。
だけど、
じゃあ、今、こうしてご飯を食べたり、
友達の前にいて話をしている
自分、っていう存在は
本当の自分じゃない別の自分なの?

じゃあ、自分が何か失敗をした時に、
「すいません。その時の自分は、本当の自分じゃなかったから
失敗しました。」って言って、他人に説明が通じると思う?


自分、っていう存在はどんな時でも、ひとりであって、
他にまだいる、とかまだある、というようなことはない。
確かに、「本当の自分はこういう存在なんかじゃない。」
って思ったら、ちょっと気が楽になったりすることは
ある。

そういう人に俺は聞きたいの。

じゃあ、とことんまで自分自身を見つめたことがあるか? って。
前にも話したけれど、俺、25くらいから28くらいのときに
つくづく自分って一体どういうものだろう?
って考えたことがあってさ。
そうやって考え出したら、あれやこれや考えて。
それで、誰だってそうなんだけど、自分っていうのは
うそをついたり、適当なことを言ったり、する
いやらしい部分だってたくさんあるわけだし、
アホみたいなことで失敗したり、言わなくていいような
ことを言ってみたり、なんていうことだってよくある。
本当に情けないというか、全然進歩のない、自分が
そこに在る、ということ。
そういう汚い、うっとうしい、隠しておきたい自分、っていうのだって
やっぱり自分の一部なんだもの。
自分自身を観る、というのは、そういう影の隠しておきたい
ような自分も勇気を持って観ないといけない。
そうやって自分のいいところも悪いところも観て、
それで、初めて、自分を観た、っていうことが言えると
思うんだ。
もうひとりの自分、って、そりゃ、聞こえはいいんだけど
じゃあ、そういう人って、そんな隠しておきたいような
自分、っていう存在まで、しっかり見てる?
何だかそういうところ見るの逃げていて、
それで、そうじゃないそうじゃない、って
言ってるんじゃないか、って思う。

多分ね本人だってそういうの、うすうす
気がついてはいるんだ。だから
そんな自分を見るのって、
あけたら何が出てくるか分からない。
醜い自分と対面しなくちゃなんない。
それは嫌だ。 
確かに向き合うのって勇気が要るものね。

だけど俺だってさ、そういうのあるよ。
うそをつくことだってあるし、同じ間違いを何度もしている
どうしようもないアホで、っていう部分だって
あるもの。
そういう部分に目をつむっておいて、
もうひとりの自分はどこかにいる、って言ってたらさ、
そりゃ楽だよ。楽だけど、そこからは何も見えてこないよ。
だって本質を見るの、逃げているだけなんだもの。

それとともによく言われる言葉で
「自分探し」っていうのがあるよね。
これは、俺、半分分かるけど、半分は、???なの。

誰だってそうなんだけど、
とりあえず今生きている、って何かしらの価値観をベースに
生きてる。だけど、その価値観って、ずっと同じじゃない。
何年かそれでやってきても、ある日、そうした
長年やってきたことがうまく機能しなくなることだって
起きる。
たとえば、物心ついてずっとやってきたけど
大人になる、ということで、
それまでの価値観とか考えが変わってくる
っていうのが思春期な訳でしょ?
それで、周囲とどう接していいのか分からなく
なって、反抗期という形になったり、
自立をしようとしてあれこれやってみる、
っていうことになるんだと思う。

そうして思春期が済んで、とりあえず
20代は、そういうままで行けるんだけど
30代にさしかかってくると、またその思春期から
ずっとやってきた考えとか方法では全然立ち行かなくなる。
そうしてまた、考えの組み換えをしなくてはならなくなる。

何年かに一度、それまでのものが
制度疲労を起こしているから、
そういう自分の立っている基礎部分をどうするか、
何に拠って立つのか、その変更作業をしなくてはならない、
それがおそらく彼の言った「自分探し」ということ
なのだろう、とは思う。
それまでサッカー一筋でやってきたけれど、
もういろいろな意味で自分の限界だって見えてきた、と。
そのサッカー一筋でやってきた自分に
何かしら自信が持てなくなってしまった。

さりとて、次に自分は何をすればよいか、は
まだ分からない。 だから自分の基礎を
探す、ということを彼はやっているのだと思う。

その基礎にめぐり当たるのは
なかなか容易ではないかもしれない。
けど、勇気を持って自分のすべてを見つめて
チェックしたら、今の自分には何ができるのか
っていうことがおのずと絞ってこられると思う。

自分探し、という言葉じゃなくて、
中盤にさしかかった自分の人生は
どこに足を立てて、行くのか。
それを探している、ということなのだろう、と思う。
「自分というストーリーの組み換え作業」
なのだろう。
それは本当に容易ではない。
だけど、それは本人がしんどい中から
それをつかみ出すしか方法はないからね。

その作業は、本当にしんどい。
けれど、それをやった人とやらずに逃げた人では
人生の中盤の生き方がまるで違ったものに
なってくると思う。
そういう組み換えをするの、って
まず地道に自分の人生を見直さないといけない。
俺なんかは、そういう地道、っていうの、全然
苦になんないんだけど、人によったら、
今まで、華やかな陽のあたるところばかり
歩いてきた人には、そういう地道さ、
っていうのは苦痛以外の何物でもない、
っていう人もいるだろうし。
そういう中で、もう一度自分の基礎の組み換えが
行われて、新たな自分の道を見つけることが
できると思う。基礎を考えることだから
決して表面だけ見ていてはできないし、
そういう表ばかり見ていたら、真実を
見誤ることだって起きる。

だからそういう基礎の組み換えを
新しいもうひとりの自分、という表現を
する人がいるのかもしれない。
でも、それは「もうひとりの自分」じゃなくて
新しいベース、ということじゃないかな、
って俺は思ってる。


資料室の棚に置かれている
アエラの表紙を見て、俺はそんなことを
思ったのだった。

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Comments

謙介さんの書かれる文章は僕は単純に凄いと思います。ほんとに脱帽です。
真実を感じてしまいます。どんなコメントを差し挟んで良いものか、、、。
言葉一つ一つにその通りだと頷いています。
そうです、いつでも人は刺激の強いもの
華やかなものに気を奪われてしまいがちですが本当に大切なものはいつも身近な所にあり、それはいつの時代も目立たず静かに微笑んでいるものだと思います。僕、謙介さんと出会えてよかったです。

Posted by: 真介 | 09. 03. 24 PM 8:11

---真介くん
 いつもコメントありがとうございます。いやあ、そんな立派なことなんてこれっぽっちもないんですよ。オヤジやオフクロからは未だに未熟者、って言われるし、姉はしょっちゅう「アホやなあんたは。」と枕詞のようにつけて何かを言われますし。真介くんの心に響いたというのは、この謙介の文章が何かしら真介くんがこれは必要だ、と感じてくださったからだと思います。自分が本当に必要なものって、よく注意して見てみると案外ひっそりと身近にあったりしますよね。禅語で言う「看脚下・足元を見よ。」という言葉はそういうことなのだろうと思います。
俺のほうこそ、真介くんにお会いできて話ができたことはすごくうれしかったです。ことしは、真介くんの周囲も環境とか、状況が大きく変化していくことでしょうね。でも、どうぞ、お体に気をつけてやっていってくださいね。いつも真介くんのブログ、更新楽しみにしています。これからもどうぞよろしくお願いします。

Posted by: 謙介 | 09. 03. 25 AM 12:06

謙介さんこんばんは。
ここ数ヶ月人生忙しくてお邪魔することさえ出来ませんでした。

久しぶりに河合さんの本など読み返して自分と魂について考えてみたりしています。

人生「穴を掘ってでも入りたい。」とか「立つ瀬がないから浅瀬に座ります。」なんて事は両手両足では足りない私ですが「それもふくめて自分」なんですよね。

秋刀魚のはらわたは苦いけど、苦いところも含めて秋刀魚なのであって美味しいところだけ食べているといつか大変な事になると半世紀もののラジオガールは痛感します。

Posted by: ラジオガール | 09. 03. 25 PM 10:25

---ラジオガールさん
俺だって、しょっちゅう失敗をしています。時々過去のそんな失敗した経験を思い出して、ぎゃあああああ、って思って振り払いたいような気持ちになることだってあります。けど、仕方がありません。そういうのだって、ドジを踏んだのだって、すべて自分ですよね。そういう失敗も成功体験も全部ひっくるめての自分なんですよね。
謙介は相変わらず、まぁこんなふうにえっちらおっちらやっています。(笑) お時間のあるときで結構です。また立ち寄ってやってください。

Posted by: 謙介 | 09. 03. 25 PM 11:48

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