« 午後10時40分・難波・情熱大陸 | Main | 奈良をまわる(その4) »

08. 11. 10

奈良をまわる(その3)

さて。
長いと思っていたこの出張・旅行も今日でおしまいです。
ものにははじめがあれば、必ず終わりがくるものです。
今日はもう一度奈良に行くことにしました。
最初の予定では別のところをまわる、ということにしていたのですが
出張初日に奈良に行ったとき、
25日から、奈良のあちこちの寺で秋の秘仏公開が始まりますよ、
という話を聞いたからでした。
まぁ旅に計画変更はつきものですよね。(笑)


帰りはOCATからまたバスなので、ホテルから
OCATに一度行き、ロッカーに荷物を預けました。
そうしておいて、最初の日にそうしたように
近鉄難波から、奈良行きの快速急行の
電車に乗りました。
ですが、奈良まで行かず、途中の大和西大寺で降ります。
その日は秋篠寺の近くの奈良競輪場でレースのある日
だったので、送迎用のバスがいっぱい停まっていました。
秋篠寺は、今から歩くコースとちょっと方向が違うので
うーん、どうしようか、と思ったのですが、
午後から体力があったらまた考える、ということで、
午前中はとりあえずパス、ということにしました。

今日は雨が降ったりやんだりという予報だったので
前のようにレンタサイクルを利用することも
ちょっとなぁ、と思いました。今日は
ずっと自分の足で歩くことにしました。

Saidaiji

西大寺の駅を出発して東に向かって進みます。
ならファミリーの建物を左に見て
やがて平城宮跡の公園に来ました。
ならファミリーっていうのは、近鉄百貨〇と岡田屋が
入った商業施設です。最初奈良の友達に
奈良ファミリー、っていうのを聞いたとき
一体なんじゃそれは、と思いました。
変な名前、やなぁ、とか。


ところがそれから何年か経って、今度は京都の
それも謙介が住んでいた右京区内に、
京都ファミリーなるものが
できました。奈良ファミリーもですが、
京都ファミリーだってやっぱり変な名だよな
って思います。
思うに、「ファミリー」という語がすでに日本語の
中でしっかり認知を受けていて、「家族」という意味が
はっきりわかっているからだと思いました。

これが仮にラポール京都とか、あまりなじみの
ない単語がついたのだったら、
むしろ変、って思わなかったかもしれません。
それと後、言葉の順番があるかもしれないなぁ、と。
でも、「ファミリー奈良」では何となく語感が
変な感じで、「奈良ファミリー」のほうが言いやすいし
まだしも自然に聞こえるので、そうしたのかなぁ、
と語感のことも考えたりしました。

京都ファミリーも最初、近鉄百貨〇と
岡田屋が入っていたのですが、近鉄が撤退して
今は岡田屋だけが核店舗でやっているようです。

ならファミリーを韓国語チック(笑)に発音すると「ナラペミリ」
「ファ」は、韓国語では「ペ」と発音します。
なので、ファミリーはペミリ。ファッションはペッション。
そのナラペミリの前を東に歩くと、平城京跡に
出ます。

これは平城京跡のあたりから、西のナラペミリ方向を
見たところです。

Daigokuden1

今、大極殿の復元工事が行われています。
平城京の前は藤原京でした。
710年に都が藤原京から平城京に遷ることに
なりました。藤原京は、飛鳥の入り口に
あたります。それまで、飛鳥の狭い一帯をあちこちと
遷っていた都は、藤原京で、今で言う、大和八木の東の
辺、橿原のあたりまで出てきます。
まぁ言うなれば奈良盆地の南の端、ということでしょうか。
藤原京は大規模な都だったにもかかわらず、都としての
時代は16年間でした。しかも、そのうちの12年程度は
藤原京建設の期間でしたから、実質都が完成して
フル活動していたのはたったの4年です。
そうして藤原京から都は平城京へと遷ります。

藤原京は結構深刻な問題を抱えていました。
奈良の地形をご存知だとわかりやすいのですが、
それまで都があちこち移っていた飛鳥地域は丘陵地
です。その飛鳥への入り口がこの藤原京の
あった地域でした。つまり、南の飛鳥のほうが地形的にちょっと
高く、北に行くにしたがって地形が下がっていく、という
ふうになっているのです。
天皇がいる中心部の藤原宮は都のほぼ中央に
置かれました。これが面白いことです。
中国の都城制の影響を受けたのであれば
平城京のように
北のほうに置くべきであるのですが、
置かれたのは都の真ん中です。
なぜか。

日本各地に国の出先機関である
国庁(国府)が置かれました。実はこの国庁の場所ですが
大抵、その地域を見晴らすことのできるような
若干の高さのある場所に作られました。
この見晴らす、という行為が古代では非常に大切だったのです。
つまり為政者が土地を「見る」という行為は、単に眺める、という
だけではなくて、その土地を統治する
という呪術的な意味も持っていました。なので、そういう国の出先の
役所は他のところより、ちょっと高みに置かれたわけです。


で、藤原京です。
さっき言ったようにこの辺の地形は南が高く
北へ行くにつれて低くなっているといいました。
それでは、大和の平原を見晴らすことができない、のです。
だけど、先進国、中国の都城は北のほうにあります。
その折衷ということで、北でもない、南でもない、
で、真ん中だぁぁ。(笑)

それでもって
実際問題としてこの藤原京の地形は困ったことが
あったんですよ。
それは何かというと南が高いわけです。
水は高いほうから低いほうへ流れます。
おまけに多くの役人やそれに付随する
人びとの住む街です。生活排水だって
し尿だって出ます。
そうした汚水が、北のほうに流れ出ることが
多かった。天皇の住まい目指して、汚水汚物が
流れていったわけです。
素敵なものがプカプカ溝に浮かんでいたり、素敵な香りの
する大極殿。
そんなもんあきまへんがな。

そして
新しい都は、奈良盆地を一気に北進し、
奈良盆地の北端を端として作られた都が
平城京だった、ということです。
今度は北が丘陵地ですから、地形が高いのです。(ふふふ)
汚水汚物に悩まされることはなくなりますよねー。


この平城京はご存知のように
左右対称ではありませんでした。
今の奈良市の中心部を形成するあたり
外京と言って、おまけのように張り出した地区が
作られました。

奈良盆地の北端に位置する
この西大寺から東に行った辺りには、
天皇が出御して政務をみたり、儀式や宴会の行われた
大極殿、天皇の日常住居であった内裏、役人が政務を
行った朝堂院、こうした建物が建てられていました。
平城京の中でも、特にそうした中心地域を平城宮と
呼んでいます。この西大寺から東のあたりの
平城京の部分は、そうした平城宮の地域
なのです。中でも象徴的な建物として、
目下そのうちの第一次の建築による大極殿を復元中です。
管轄は文化庁です。
文化庁は昨今小室氏の一件で話題の著作権から
常用漢字、言葉遣い、
遺跡の発掘・保存、伝統芸能、まで
考えたら、守備範囲の広い役所ですよね。(笑)

Daigokuden2

何度か言ったように、俺が大学院で研究したこと、っていうのが
六国史という日本書紀以降の6冊の日本政府の公式の歴史書の
中に出てくる、さまざまな人の死亡記事を集めて
きて、その語彙の変化を見る、というものだったわけです。

ですから事件事故で亡くなった人の記事も全部見たわけですが。
よく奈良時代のことを「万葉のロマンあふれる時代」
(けっして、くちま、、とは読まないよーに。笑)
と言っている人がいますが、そんなもの、俺にしてみれば
「嘘つけコラ! 」です。
政争はしょっちゅう。殺し合いだってしょっちゅう。
そんなもの、ロマンの時代なんかじゃ決してありません。
殺戮に明け暮れていた、といってもいいと思います。


とはいえ、俺はそうした人の営みを見るのが
好きです。事故や事件の起きるはじめには、必ず誰かの
何らかの感情の動きというものが、あったはずです。
あいつ、好かん、でもいいでしょう。
好きなのに振り向いてくれないから嫌い、でもいいでしょう。
邪魔なヤツだから殺そう、もあるかもしれません。
では、その感情はどうしてそういうふうになったのか。
その感情が積もり積もって
どういう事件に発展したか。そうした人間の心の動きを
解明しようとしたり、人の感情をあれこれと
考えることこそ、文学の仕事なのだと思っています。


話は脱線しますが、俺、最近の小説がつくづく
ダメな気がして
読まない、読みたくないと思うのは、そこに人間、
というものがほとんど描かれていないからです。
今ごろの小説の中にあるのは「人の動き」だけです。
感情というものが一切書かれることがない。
そんなものを文学って言っていいのかよ? って
俺は怒りすら持っています。


おまけに、そんな「人間」の感情を書かない、
書けないままの「?」な作品ばっかり産出している
某作家さんはノーベルお文学賞が欲しくて
賞獲りに血眼になっていて、
あれこれと画策しているのだそうで。
まったくもってやれやれなことでございます。


話を元に戻しましょう。
大学生の時は、よくここに来ていました。
何をする、というのでもなく、ただただここでボーっと
空を見上げて、いろいろなことを
思ったり、考えたりしていました。
でも、そんな中で卒論の構成を考えたり
万葉集で歌われた場所を歩いては、歌で詠まれた
場所の位置関係とか距離の確認をしたりしていました。

このあたり、佐保川が流れているのですが、
この平城宮あたりから東、そうですねぇ、
途中の法華寺あたりまでを
佐紀路(さきじ)と呼びます。
もちろんこの佐紀を詠んだ歌は万葉集にあります。

俺、以前から何度も言っているように、ひらがなをつかって
万葉集の歌を書きあらわそうとすることは、
良心が許さないのですが、やはりひらがなのほうが
読みやすいでしょうから、便宜的に
ここでは分かりやすいようにひらがなで書きます。

(え? 何で良心が許さないの?って?
だって万葉集の時代にはまだ、「ひらがな」は存在して
いなかったじゃないですか。だから万葉仮名を
つかってたわけですよね。そんな発明もされていない字で
その歌を書いていって、それで発音がその字で
本当に合っているのか、ということもありますもん。)

まぁいいや。ひらがなで書きましょう。

佐紀路の歌ですね。


中臣郎女(なかとみのいらつめ)が
家持さんに贈った歌で

 をみなへし 佐紀沢に 生ふる花かつみ 
  かつても知らぬ恋もするかも

をみなへし、は後の佐紀沢にひっかけて
咲きの意味で掛けた掛詞の枕詞。

花かつみ、っていうのは、どうも花ショウブの
なかまのようですね。

「佐紀沢に生い茂る花しょうぶではありませんが
かつて知らない恋さえもすることです」 

というのがあります。家持さんは説明要りませんよね。

ちょうど家持さんのお家がこの佐紀路の辺にありました。
実は、この平城京北方の場所は、高級官僚とか、力のあった
人々の屋敷があったところでもあります。
この家持さんのお家もこの辺にありました。
で、特に、家持さんは、何せ名門、大伴の出ですからね。
最後は従三位兼春宮太夫陸奥按察使鎮守府将軍の
地位で薨去しています。


家持さんのことが出たので、ちょっとお話をすると
家持さんのおじいさんという人が大伴安麻呂という
人でした。大納言兼大将軍の人でした。この安麻呂が
佐保の地に屋敷を建てました。なので別名を
佐保大納言と呼ばれたようです。
そうして、安麻呂の子が大伴旅人ですね。
旅人は、父ちゃんの安麻呂が死んで4年後の718年に
中納言になります。そうして728年には大宰権帥として
九州に赴任します。まぁそこで山上憶良と出会うわけです。
そうして730年に今度は大納言として奈良に戻って
きます。しかし、九州で奥さんを亡くしていたり、
いろいろと交流のあった長屋王が亡くなったりしたことも
あって、いろいろと心労が重なったせいか
彼も奈良に戻った翌年になくなります。

そうして、その旅人の子が家持さんだったわけです。
とはいえ正式の奥さんの子ではなかったのですが。
旅人が54歳のときの生まれなので、結構遅い年に
生まれた子ですよね。
そういうこともあって、14歳で父親が亡くなります。
肉親の後ろ盾はなかったのですが、橘諸兄が
後ろ盾になってくれたおかげで、家持さんはそれなりに
出世をしていきます。29歳で越中の国司になるのですが
そのころが一番彼の作歌活動の充実してた時期ですね。

実は万葉集って、後半になると、もうほとんど家持一族
の歌ばっかり、っていいような状況になります。
口の悪い学者は、万葉集後半なんて家持の個人歌集、なんて
言っている人もいるくらいなんですよね。

で、万葉集の一番最後の歌、

 新しき年のはじめの初春の けふ降る雪の
                   いや敷け吉事

という歌を42歳の時に歌って、その後は、一切歌を
作らなくなってしまうのです。
この歌、一見、めでたそうな歌には読めますが
本当に「めっちゃ暗い歌」です。
夜、暗い中を、しんしんと雪が降っています。
周囲にあかりはまったくありません。
暗い夜です。雪は音もなく降っている。
「けふ降る雪の いや敷け」です。
去年という年は、ろくなことがなかった。
ですから、せめてこの新しい年には
いいことがあってもらいたい、
という絶望に近いような「せめてもの願い」を歌った歌です。
来年の正月あたりでもぴたっと、
気持ちの上で、合いそうな歌ですね。
やれやれ。


そうしてこの暗い歌を最後に、家持さんは一切の
作歌活動から手をひくことになります。
歌の詩句はめでたそうですが、内容を解釈したら
もうとてつもなく暗い歌です。
希望というものが全くない。

越中から戻って、後は、この奈良の佐保の屋敷で
住むのです。

この歌を作った中臣郎女さんという人は、実はどういう出自の人で
あったかはわかりません。
彼女の歌は巻の4、 675番歌から679番の歌までの
5首の歌が入っています。

人のイメージは恐いものです。
山上憶良、って、貧窮問答歌のおかげで
民衆詩人、っていうイメージがありません?
あの人、実は高級官僚だったんですよ。
今の金額で言えば、年収は2000万クラスです。
大した高額所得者です。(笑)
昨今話題の1万2000円なんてもらえない(笑)
階層です。
決して貧乏なんかじゃありません。

この平城京の北側は、
また古墳が集積した場所でもあります。
しかも、その古墳の向きが、
あっちこっち別方向、っていうんじゃ
なくて、みんな方向が揃っている!

ということでこの辺の古墳を
「佐紀盾列古墳群」
と呼んだりすることもあります。
それで、特に興味を惹かれた行き
やすそうな古墳をこの際に回ってみることに
したのです。そういうこともあって、
今回の秋篠寺は、、ちょっと後回しに
して考えようと思ったのでした。

アホみたいにナラペミリ、とか言ってたら
長くなってしまいました。すいません。
今日はここで一旦措きます。

        ×     ×     ×

月曜なので、がんセンターに行く。
前回の超音波診断の写真を見ながら、
話をする。
「胆のうのこれ、胆石じゃないけど、それになりかけの
多分これは砂だと思う。」
「薬は? 」
「ウルソが一番なんだけどねぇ、、。いまひとつ
効果がないような感じやね。もうしばらくようすを見て
あかんかったら、また考えましょう。」とのこと。
血液検査の結果は、「良くはないけど、そう悪くて
絶望的、というのではない。」
とのこと。
何や知らんけど、難しそうな診断。(笑)

|

« 午後10時40分・難波・情熱大陸 | Main | 奈良をまわる(その4) »

上方のはなし」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 奈良をまわる(その3):

« 午後10時40分・難波・情熱大陸 | Main | 奈良をまわる(その4) »