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08. 04. 01

心の安らぐ人はいたのだろうか

実は、大学院の時に、俺がいた
文学研究科には、院生が3人いた。
一人は俺で、もう一人は中古文学をやってる女性で、
それからもう一人のヤツが、これは比較文学。
森鴎外の文学におけるドイツ文学の影響、っていうのをやってた。
で、その比較文学やってた奴が、院を出て、
岡山の地方紙の新聞記者になった。


その彼に、今度の岡山駅でのあの突き落とし事件、
どこまで調査が進んでいるか、ちょっと聞いてみたんだ。

そうしたら、やったあの18歳の男の子には
明確な殺意があった、っていうことらしい。
電車がホームに入ってきたときに、最前列にいた
その被害者の男の人のところに小走りで走っていって
両手でその男の人の肩を押した、っていう。
警察が、「明確に人を殺す気があったんだな? 」
って聞いたら「あった。」って答えた、っていう。

その前の茨城の事件もそうなんだけど
こういう事件が起こったら、必ずその犯人の
精神構造とか心理状態を心理学が専門の人が出てきて
解説をしたり、説明をすることになってるよね。
新聞なんかを読んでても、必ずそういうコメントが
載ってたりする。

だけど、俺、果たしてそんな解説って、どこまで
正確にその事態を読み取って解説しているのか? って
本当にそうなの? って、すごく不信感を持ってるの。

だってさ、その容疑者が、どんな家庭環境で、
どういうふうな家庭環境の中で育ってきて、日ごろからどういう考えを
持っていたり、行動してきたのか、っていうことは
あくまで新聞報道程度のことでしか出てない訳でしょ。

そういう専門家の人は、その出た情報だけでしか判断できる
材料はないっていうことでしょ?

だけど、その人の育ってきた家庭がどういうふうな家庭で、
なんてことは、それこそ個人情報だから、新聞報道なんかには
絶対出てはこない。

それにさ、みんなだってよくあることだと思うけど、自分が
考えていたこと、思っていたことが周囲の人間には
全然伝わっていなかった、
なんていうことあるでしょ。

自分は、こういう人間だ、って思ってるのに
周囲の人間から、あの人(自分)は、こういう人だ、って全然別の
印象を持たれていたり、なんてことだってよくあるでしょ。

だから自分が思ってることと、他人が思ってる
印象なんて、結構大きくずれてたりする、なんてこともよくある。

あの子のお父さんは、うちの子はお父さん子で、、
って言ってるけど、それは果たして本当なのだろうか。

親から見たら、お父さん子かもしれないけど
子どものほうは反発するのが恐かったから
とりあえず、父親の言うことを聞いていただけ、
っていうことかもしれない。

だから他人の印象って、やっぱりその人の考えを忠実に
反映していない、ことなんて普通にあることじゃないかなぁ
って俺は思う。

ところが、新聞はそういうご近所の人の「印象」が取材のすべて
だったりする。 やった本人の心の闇は文字通り、他人にとっては

闇なので、その子どもの心理を分析するときには反映されない。
だからさ、そもそもその子の心の中の把握っていうところが
不確かかもしれないのに、さらに
その上に立脚しておこなった推論が果たして、
正確なのか? っていう気が俺はずっとしてるんだ。


18歳の人っていうのも
全国には何万といるわけで、もちろんいろいろな考えの
18歳の人がいる。
謙介は、今年、まぁたまたま18歳の受験生のお世話を
した、っていうこともあってさ。 そうやって自分が見てた子と
同い年の人だったし、特に気になって
あの事件について考えるところが大きかった。

で、考えたのは、茨城の事件のあの逮捕された人もそうなのだけど
二人とも育ってくる中で、誰か、一人でいいから
その人のことをむちゃくちゃに愛してくれる誰かに
出会ってきていたのだろうか、ってふっと思った。

人が育つには、
誰かから、めちゃくちゃ大切にされるとか、愛された、っていう思い出が
要るんじゃないか、って俺は思う。
そう。
もう盲目的なくらい、その人のことをかわいいかわいい、って
言ってくれるような人。 そういう愛情をかけてくれる人が、絶対ひとりは
必要じゃないか、って思う。

それは、親でなくったっていい。
近所のおっちゃんおばちゃんでも、おじいさんでも
おばあさんでもいい。誰か、自分をすごく大切にしてくれている
という気持ちを子どもが持てる人であれば
誰でもいい。

子どもの立場で言えば、その人の横に行ったら、
安心して何でも任せてしまうことが
できるような存在の人。楽しくて楽しくて、
ああこの人好きだ、って思えるような人。
みんなだってそう。自分の今までを振り返った時、
あ、あのおっちゃん、変わってたけど、おもしろかったな、
とか、あの、おばちゃん、何や知らんけど、俺に
しょっちゅうお菓子とかくれたなぁ、とか。そういう
思い出して、心が懐かしくなるような存在の人。
子どもが育つ途中って、もう無私の愛情を一方的に注いでくれる
人が要る。そういう人と出会って、人を信頼する、というようなことを
学んでいくのだろうし、心の幅だって豊かになる、というようなことに
なるんじゃないかなぁ。

この捕まっている二人って、果たして、これまでの人生の中で
そういう存在の人に出会ってきたことがあったのだろうか、
って思う。


小さいときから、年齢不相応に我慢をさせられた、とか
あの子は、辛抱強いから、何にも文句は言わないだろう、
って思われてきた。

そういうふうに、子どもが子どもでいられないような
扱いを受けてきた、っていうのがどれほどの不幸か。

前にも言ったけど、人間の心の発達段階っていうのは、
やっぱりAからB、BからC へと順を追って進まないといけない。

AからいきなりDへ、なんて飛ばしていくと、それは必ず無理が出る。
おとなしい子、辛抱強い子、っていうレッテルを
張られた末に、周囲の大人に この子は、 
大人として扱っていい、みたいに思われて
大人に勝手にそういうふうに無理強いされた子どもは
言ったら、A→Dに飛ばされた、っていうことだと思う。
無理して背伸びさせられてきただろうに。
たぶんそんな状況を、必死に我慢してきたことだろうと思うんだ。

だから、よく事件を起こした人が、
「おとなしいヤツだった」なんていう場合が
あるけど、それはおとなしいんじゃなくて、
おとなしいふうに仕向けられていたのかも
しれないし、必死で物分りのいいヤツを装って
がんばっていたのかもしれない。

そうした、自分の誰にも見せていない部分の気持ちと
外からの見た目の乖離が激しくなって、、
どうしようもなくなって、ある日突然大爆発! っていうような
ことだって俺は起こると思うよ。


俺ね、スーパーとかデパートなんか行ったら、そういう家族連れを
見かけて、ことのついでにどういう会話してるのか
なんて聞いてしまうんだけど、そういう会話を聞いたり、
子どもなんかを見ていると、まだ子どもなのに、変に
年齢不相応に扱われてる子どもも結構多くいて、
あーすごく無理をさせらてるなぁ、って思うことがある。
こいつ、絶対将来、ぐれるぞ、とか思ってしまう。


だけど、どうしても、そういう安らげる人、っていう
存在が全くなくって
歳が経って大きくなっちゃった、っていう
人って、大人になってから、子どもの時にできなかった
反抗期になったり、突然子どもに返ったりする。
30歳過ぎて反抗期が来る、なんていうのはさ、やっぱり
中学生の時に、ちゃんと親との間に反抗期、っていうのが
なくて、心の発達段階を飛ばしてしまったことへの
順序の間違い直しをやってる、っていうことだろうね。

順を踏んで育っていけなかったから、もう一度
その順番が狂ったところの年齢に戻ってやり直しを
しているんだ、とは思うけど。

それはその子にとってどれだけの不幸か。

ところがその一方で
そういう子どもに無理な要求をしてきた、
っていうことにも気づいていない大人も多いし。

なんだかいまどきの子どもって、なかなか
子どもでいさせてくれない子どもが多いんじゃ
ないかなぁ。

街で歩いてる親子連れの会話を聞いてると、
そんなことを俺は思ったりするの。

みなさんは、今までの人生のなかで、自分がホッとできる
心休まる人に出会ったことがありましたか?

(今日聴いた音楽 瞳を閉じて 歌 松任谷由実
 音源はLPレコード こっちは長崎の五島のほうの歌、
ですね。)

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