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08. 03. 07

「でしてね」の問題

福田内閣は、支持率がどんどん下がり続けているとのこと。
先月の末の調査ではとうとう3割を切ってしまった、
なんてニュースを見たし、、。

じゃ不支持なんだけど、その理由を、と見てみたら、
政策が評価できない、とか年金問題の対応が悪い、とか
種々あって、、その中に「どこか、当事者意識に欠けて
いるんじゃないか。」というのがあった。

あ、これは分かるような気がする、と謙介は思ったんだ。
実はどうして福田さんの話が「当事者意識に欠ける」と
映るのか、ちょっと考えていたからなんだけど。

前に福田さんが演説をしているのを生で聞いて、
あ、って思ったのは、
この人、言葉の最後に「それは~でしてね。」 という言い方をよくする。
ここに原因があるんじゃないか、と俺は思う。
「でして」っていうのは、状況の客観的な説明をしているときに
使う言葉だよね。そうなっている、と。
それに「ね」というのは、この場合「間投助詞」で、
この「ね」の働きは、日本国語大辞典によると

 文節の終わりに付けて、相手に念を押し、あるいは軽い
 感動を表わす。

という説明がある。まぁ、言ったら「こういうふうになっていまして、ね。」
ということなんだろう。
問題はここね。(ほら「ね」だ。 笑)

首相に求められているのは、こうします、という意志の表明であって
状況の分析ではない、ということだよね。

福田さんの記者会見の言葉を聞いていたら、そういうふうに
「でしてね。」 という終わり方の言葉が耳につく。
だけど、その「でしてね。」は、あくまで状況の説明でしかない。

しかも、その「でして」の後に、その説明に念を押す
「ね」までつけているから、余計に状況分析の
「でしてね。」が耳に残る。

だから、福田さんの言葉を聞いていたら、何だかよくわかんないけど、
一体首相はどうしようとしているのか? という意志が
さっぱり伝わってこない。

まして前のコイズミさんはアジ演説みたいに
短いフレーズで、「~でしょう、~でしょう、だから~なるじゃないですか。」
と簡潔に強い表現で押してくる演説をしていたから、
余計にその違いが出てくる。

だからどうしても聞いている側は、「評論家みたいな、ものいいだねぇ、、」っ
思って、それで当事者意識がない、っていう批判になってるんだと
謙介は思う。

少なくとも、「今はこういう状況です。こういうことがあります。
それについて、福田内閣はこうします。」 って簡潔な言い方をしたら
印象がずっと変わってくると、俺は思うけどね。

その辺もうちょっと考えたらどうなんだろう?


    ×        ×         ×


はてさて。来週月曜の午後から、病院に入ります。
おそらく、ブログの記事の更新については、今までのようには
できないと思います。

今のところ、入っている期間は、1週間から10日間、
ということらしいのですが、
「結果次第ではもうちょっとかもしれませんねぇ。」と、言う
ことのようです。

とはいえ、おなべさんは同行させます。
(どうしても仕事のことで要りそうなので)
メールの送受信、楽しみにしているブログへのお邪魔、
ていうようなことは出来そうなので、
そういう形で謙介は生きてます、っていうご報告は
できると思います。

人間生きていたら、「何でこんなことになるんや」
ってもう悔しいというか言いようのない悲しみにおそわれる
ことって、正直何度もありますよね。

でもそんなとき、どうやって生きるか。
それがひとつに自分の生き方を問われる、
生き方だけでなくて、人間としての謙介という人間の
底がどの程度のものか、ということを自分で
確認するようなところもあります。

以前はひたすら悔しい、と思うばかりだったんですが
最近は、それもまた自分なのだ、
いいこともまたいつかあるだろう、
それが人間だ、と思うようになりました。


このブログ読んでくださっているみなさんの
毎日にもいろいろなことが起きますよね。
それをどう過ごすのか?

仕方がないこの病気と俺はどう付き合って行こうと
しているのか。
問題は大きいのですが、少しずつ前に向かって
さえいたら、そのうち答えも見つかるかもしれない、
と思って、ゆっくりと歩いていこうと思っています。


いつも見にきてくださってどうもありがとうございます。


春本番もまもなくのことだと思います。
またみなさんの周囲の春の話、
お時間がおありでしたら、ぜひお聞かせください。
楽しみにしています。

   謙介拝上

(今日聴いた音楽 Someday My Prince Will Come
曲目、もうホンマかいな、というようなものですが。
 演奏は ビル・エバンズ トリオ 1959年 12月 
 ニューヨークでの録音 )
 

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Comments

大河の篤姫、視聴率は良いらしい。
でも、時代考証的に、どうなのこうなの、と、
批評批判が後を絶えないとか。
ハナから、たかだかテレヴィドラマのこと、
と、娯楽の一環として観ておれば良いのじゃないかと、
Jean de Tokioは思ってるんだけど。

それにしても、
原作宮尾せんせ、と言いながら、
随分脚色されてる。
原作なんてのはあんなものか、と、
これまた諦めりゃ良いのかしらん?

それでも、一話に、二三カ所くらいは、
原作の、宮尾せんせのものと断言できる
ことばが、出てくる。とりあえずは。

人の上に立つ者としての心得の一つとして、
おかつが、
ことばについての注意を受けている場面で、
声は大きく。
小さい声で呟いたり独り言を言ったりしない。
一度言ったことは取り消さない。
というようなことが出て来た。

こういうことを、
福田君初め、諸兄に忠言するような、
そういうお目付役みたいなのは、
おらんのかねー。
昔で言う、三木君のお連れ合いさんとか。
田中まっこちゃんも、
もっと信頼される人で、もっとお上品だったら、
そういう役にも立てたかも知れん?

イメージとしては、
八千草薫みたいな人が、
ゆっくり囁くように、それでいてはっきりと、
『あなた。人の上にある立場のあなたが、
それではいけないんじゃないかと思うの。』
なんて、言ってくれたり?
仕舞いには、
『もう、やですよ、あたし。
そんな、でしてね、なんて人ごとみたいに言って』
って言いながら、ちゃぶ台の上に、いくつも皮を剥いた
はるかを皿に盛ってるの。

そういうのどう?

Posted by: Jean de Tokio | 08. 03. 08 at 오전 1:40

----Jean de Tokioさん

前にも少し話したのですが、大河ドラマなんて時代劇、と見てはいけないんだと思います。わざわざちょんまげをさせておいて演じる「現代劇」じゃないですかね。(笑)
 俺の大学のときの史学科・民俗学の先生が、何年か前のNHKの朝の連続ドラマの時代考証をしたんですけど、する側も全部意見は通らないんだそうです。だから考証の側もイライラしてるし、見る側もそんなものじゃない、ってイライラしてるし、、(笑)何かフラストレーションたまりまくりのような話ですね。
 今度の内閣、そういう話してくれる人がいない、っていうの、大きいですねぇ。というか、閣僚に女性はいらっしゃいますが、いまひとつ存在感が伝わってこないように思いますよね、、。そういう存在の人がちょっとないように思います。

Posted by: 謙介 | 08. 03. 08 at 오후 12:26

 前任者のアジみたいな演説が嫌いだったもので,どこか突き放したような現任者の方が逆に理性を働かせられていいな,と思ってるんですが(←偏屈 笑)

 無事の退院,お待ちしてます!

Posted by: Ikuno Hiroshi | 08. 03. 09 at 오전 12:37

----Ikuno Hiroshiさん

実はうちの姉も、福田さんの演説のほうがいい、といっています。あの方のアジ演説、おっしゃってるその点に限って言えば、確かにそうなんですけど、ちょっと退いて全体を冷静に見たら、、ということが結構ありましたよね。だけどあんなに景気のいいどんどん押してくるような演説が、受けるところには受けるんですよね。そんなことをあれこれと考えてるような偏屈がここにも居りますが。(笑)

Posted by: 謙介 | 08. 03. 09 at 오전 9:55

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