忘れ去られることについて
こんにちは
病院生活も、少し慣れてきました。
毎日のことを簡単に書いてみます。
大体朝の5時過ぎに目が覚まされます。
同室のおじいさんが5時になると
ラジオかテレビをつけるのです。
イヤホーンは、耳が痛いので嫌なのだそうです。
そのうえ、ずいぶんと耳が遠いので、ボリュームも最大に
なっています。 看護士さんがすごい音を聞きつけて
いそいで詰所から来てくれるのですが、
そのおじいさん、耳が痛い、と言って取り合いません。
俺は一階の○ァミマで、耳栓を買ってきました。
病院のコンビニで買ったはじめてのものが耳栓でした。
ずっとそれをつけて、毎日います。
本当は6時が病院の動き出す時間です。
6時になったら、看護士さんたちが、熱や脈拍を見にきたり
その日の検査の確認をしにきて、バタバタと動き始めます。
この間に、時間を見て、シャワーを浴びにいきます。
晩は薬の加減で熱が出たりすることがあって
入りたくないのと、行っても結構混んでいたりして
入れないことがあるので、この時間に行きます。
7時半が朝食。
朝は、相変わらず味噌汁にパン、というナイスな取り合わせです。
パンは、その日によってバターロールだったり、
食パンだったり、ちょっと変わった形のパンだったり
します。でも味噌汁は必ずつきます。
後、ちょっとした野菜のお皿に、くだもの、牛乳です。
食パンの時は、マーガリンとかジャムがつきます。
でもおかずは味噌汁。
具はいろいろで、昨日は豆腐に白菜とニンジンとでした。
8時過ぎに主治医が回診に来てくれます。
前日からの状態を説明し、いつも「はい寝てください。」
と言って、肝臓を触診します。
手で肝臓のやわらかさを診ているんだそうです。
堅くなったら文字通りの「肝硬変」なので。それで触って
確かめる、ということだそうです。
息を吸って、止めて、、、はい楽にして、、
と言いながら触診していくのですが
たまに、吸って、吸って、吸って、、ってまるで
コントみたいな状況も実際あって、そういうときは
「ぜんぜい、ぐるじいでず」と言います。
その後に朝の検査です。
検査そのものは30分くらいで終わることが多いのですが、
検査室に呼ばれて、それから、順番を待って、
検査があって、その結果が、、といっていたら、それだけで
午前中がつぶれます。
もう検査が終わると、一大事業を成し遂げた、という感じです。
で、病室に戻って、大音量の中、ご飯です。
午後は、また検査があって、
夕方、主治医の回診というのか検査の結果が
出ていたら、その報告かたがた回診がもう一度
あって、夕食が6時。
その前後にお隣は家族が見舞いにやってきます。
テレビのボリュームは、相変わらず大きいまま。
おじいさんの連れ合いも耳が遠いみたいで
むちゃくちゃ大きな音のテレビの音なんですが、
それでも聞こえにくい、というか
聞き取りにくいんだそうです。
がんがんするような音で大相撲中継がかかっているのに、
「このテレビ、音が聞こえんのよ。にいちゃん、音の調節して
おくれんか。」 と俺に言ってこられたときには、さすがに、、ねぇ。(苦笑)
おかげで大相撲にすっかり詳しくなりました。
しかし、それにしても力士の人って、インタビューのとき
必ず頭に「そっすねー」ってつけるの、あれどうしてなんでしょう?
(知り合いに聞いたら、別に大相撲に限らず
スポーツ選手ってインタビューのとき、大抵つけて言ってる
っていうんですけど。)
ほとんどの人がつけて言ってる。
流行なんでしょうか? それとも 「そっすねー」の間に
必死で次にどう言おうか、って思う言葉を探しているのか。
謎。
おじいさんのテレビの音問題、
看護士さんに「何とかなりませんか? 」と一応
お話はしてみました。 看護士さんははっきりとは
言わないのだけど、どうも、そのおじいさん困った人で
誰と同室になっても困る、というような人で、
何だか知らないけれども、俺が同室にさせられた、
というのが真相のようです。
やれやれ。
昨日の夕方だったか、ラウンジで別のおじいさん二人が
話しているのを、そばでぼんやりと聞いていました。
それは、自分が亡くなって何が嫌か、という話でした。
やはり、がんセンターの内科病棟で、そういう話を聞くと、
ちょっと他で聞くのとは違ったものがこちらに
迫ってきます。
そのおじいさんは何が嫌だ、と言って、
自分が死ぬと忘れ去られてしまうのではないか、
ということなんだ、ということでした。
実はそういう話をする人が、以前、俺の知り合いにも
いました。自分の死後、自分の存在が忘れ去られていく
ことがたまらなく嫌だ、ということでした。
でも実は、俺は、それがよく分からないんです。
自分が死んで、忘れ去られるかもしれない。
自分が死んだからといって世の中はほとんど
影響はない。
あしたはまたいつもどおりに夜が明けて、一日が
はじまる。
それがたまらないことだという。
堪えられない、とも。
いや、俺は分からない、ということばは正確じゃないな。
俺、そういうふうに考える人がいる、というのは分かります。
謙介が大学院で専門でやってたことって、「歴史書がどういう
意図で編纂されたのか。」っていうようなことでしたから。
歴史書なんて、言ってみれば、後代の人に対して、作った人間が
「ワシはこういうことをした。ワシは、こんなふうに生きた。
どうだすごいだろう。えらいだろう。わはははは」
っていうのを末代まで知らせることが主眼。
分かりやすく言えば、歴史書なんてこんなものです。
日本書紀なんて、作ってる最中から、役人を呼び集めて
日本書紀を十分理解するための講座、っていうのを
時の政府は何度も何度も、それはそれはしつこく
やっています。役人に日本書紀が正式な歴史書だから
これを覚えろ、ってこんこんと徹底させている。
そんな歴史書ばかりを見てたんですから
あ、世の中には、自分というものの存在を
長くしらしめておきたい、と思う人もいるんだ。
死んだら忘れられるのが嫌、って思う人もいるんだ、
それは分かります。
でも俺は、俺が亡くなったら、いつまでも記憶になんか
とどめておいてもらわなくていい、って思います。
さっさと忘れてくれて別にかまわない。
さして興味のなかった人はそのまま忘れていってしまうでしょうし。
謙介? 誰、それ、ふぅん、そんなヤツがいたの?
俺はそうなったとしても、別に何とも思いません。
俺自身は、人間に興味がある性分なので
自分の出会った人のことは、記憶にとどめようと
努力はします。
どこそこで会って、こんなことを話して、って
そういうことは覚えているつもりです。
でも、それは俺の場合であって、
人にはいろいろな人がいて
みんながみんな、人の記憶をきちんと覚えている、
ということはないですよね。
すぐに忘れる人がいても、何の不思議もありませんし、
忘れるから、といってそれがくやしいとも思えない。
人間は忘れる動物ですし、ある部分図太く忘れていかないと、
過去のことをあれこれ背負い込み過ぎたら、病気に
なったりしますよね。
俺、という人間が亡くなったとしても、
俺と言う人間のことを覚えておいてもらいたい、
そんな執着、俺にはないです。
あ、そうだ。
これを読んでくださっているみなさんはどうでしょう?
やっぱり憶えておいてもらいたいですか?
自分が亡くなった、として、その先まで、
後に残った人たちの意識の中に無理やり
自分を刻印づけさせる、ということを、、
というのは、したくないなぁ。
確かに自分が生きている間に、
俺は、確かに生きていて、この仕事をした、
って言えるものは作りたいとは思います。
でも、それは俺自身の、いわば個人の内面の課題であって、
死んでまでそれを遺して、、ということはないです。
禅のおっしょさんに「我執を去れ」とよく言われました。
我執にとらわれているから、自分の進む道が
見えなくなるんだ、とも。
逆に、どうしてそこにこだわるのか?
俺としては、それがよく分からないんです。
自分が生きて、そうしていつか亡くなる時がきて。
そこで自分の人生は完結だと思うんです。
それ以上に何が必要なのか?
俺は亡くなったら、塵埃の彼方に消える、
それでいいなぁ。
やっぱりいろいろな考えを持った人がいるんだよなぁ、
っていうようなことを改めて深く思った謙介でした。
主治医の話によると、大体主だった検査はした、
ということです。
結果がもう少ししたら出るのと、
後、気になるところをチェックしましょう、という
ことのようです。時間的にはまだもう少しかかりそうです。
ということは、まだしばらく耳栓生活が続く、のか。(やれやれ)
それにしても、急に春めいてきましたね。
あたたかくなって。
(花粉が急激に飛びはじめてるのは、
しんどいのですが)
季節の変わり目です。
どうぞみなさんもお身体ご自愛ください。
(今、聴いている音楽 瞳を閉じて 歌 平井堅
この歌も亡くなった人への記憶、と 時の流れ
が歌のテーマになっていますよね。)
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Comments
風邪ひき欠勤中のJean de Tokioです。
風邪くらいで欠勤?と、思う人もいるかも
知れませんが、
身体の訴えには、正直に応じるようにしているんです。
しんどいときは、休む。
忘れ去られることについて、
このテーマ、実は、自分の中では常に、
頭の中をぐるぐると巡っているテーマ。
>実はそういう話をする人が、以前、
俺の知り合いにもいました。
自分の死後、自分の存在が
忘れ去られていくことがたまらなく嫌だ、
ということでした。
これ、ちょっと分かるんですよね。
たまらなく嫌、ということとは、
少し違うんだけれど、
自分の死後、人が自分をどういうふうに
覚えていてくれたり、思い出してくれたり
するのかな?というのは、
凄く興味がある。
ある種の自惚れとか、自己顕示なのかも
知れないけれど。
最終的には忘れてしまわれるかも知れないけど、
少なくとも死んで何日か、何週間かくらいは、
覚えていてくれるとしたら、
その人が自分について何を考えたりしているかを
知りたいな、というのはよく思うんだよね。
人に自分のことを覚えていて欲しい、
その分、自分もあなたのことは決して
忘れないよ、という気持ちでいるつもりなんだけど。
我々のここでのやり取りを楽しみにしている
奇特なおかたがいらっしゃるようだけど、
今日はこれでギブアップ。
寝ます。ww
Posted by: Jean de Tokio | 08. 03. 14 PM 1:54
----Jean de Tokio さん
お身体の具合、そうですか。
本当に無理なさらない、ということが
一番大切だと思います。
病人が言うのもなんですが
どうかお身体くれぐれもご自愛ください。
早くよくなられることを
祈っています。
俺も自分自身としては、
ちゃんと出会った人のことは覚えて
おきたいし、出会いは大切だと思います。
どんなふうに自分のイメージが
人の中で生きていくのか
ちょっと知りたい、っていうことでしょうか。
俺自身は、恩師とか、先輩とか、友達とか、やっぱり出会ってきた人の影響をずいぶんと受けているように思います。
関係はない、とはいいつつも、自然につきあってきた中で、お互いが関連しあいながら、、っていう部分はあるでしょうね。
早く体調が回復されますよう。
Posted by: 謙介 | 08. 03. 14 PM 6:55
うーん,そうですねえ,僕は忘れてもらっても一向に構わない人です。どうせ大したことやってないし(笑)
それに,いなくなった後,僕のことをずーっと引きずってもらいたくないですねえ。その思いが成仏の妨げになるのもイヤだし(苦笑)
まあ,何かの拍子に思い出す,くらいならいいですが,「自分を刻印づけさせる」ような真似はしたくないです(過去,そうした過ちをやらかしたことが・・・古傷)。
また,そう思う理由の一つは,僕が浄土宗を信仰(というほどではないが)しているっていうことにあるんでしょうね。どうせそのうち西方浄土で再会よ・・・みたいな(笑)
同室のおじいさん,ヘッドフォンもダメ・・・なんでしょうねえ。いっそ個室に入ってもらった方がいいような。
早く騒音公害から逃れられ(=退院)ますように。
Posted by: Ikuno Hiroshi | 08. 03. 14 PM 7:12
こんばんは。お具合いかがですか?
病院の売店で売ってるイヤホンって、つくりがチャチな気がするのですが、使い心地はどうですか?
私は、中学くらいの頃には「百科事典に名前が載る人になる」のが目標でしたが、今はそうでもないですね。
テレビで○周忌記念の特別番組がたびたび企画されて、しかも番組ごとに秘蔵の品が小出しにされていくのなんかを見てると、名を残すのも考えもんだなぁって思います
Posted by: mishima | 08. 03. 14 PM 11:55
僕も、死んだ後に覚えておいてほしいなんて執着は、ないなぁ…。
もう、充分恥もかいらし残してきた物もあるし…う〜ん。
耳栓しなくあいけないほどうるさいのは困りものですね…病室も急に変えてもらえないのだろうし…。迷惑ですね。
耳栓は、耳の穴の中で後でふくらむやつですか?あれが一番音の遮断してくれますね…。
Posted by: holly | 08. 03. 15 AM 12:40
自分の書いた本が、どこまで残るかには興味あるけど、自分自身のことはよくわかんないな。でも、死んだ人のことを思い出して、その人の話をしたり、その人について書くのは好きかもしんない。好きというか、そうしたいというか。それが鎮魂の作業だと考えてるからでしょうかね。
「そっすねー問題」(笑)ですが、きっとお相撲さんは体が大きいので恐竜のように脊椎辺りにも小さな脳味噌があるんですよ。「そっすねー」は、そっちの脳が反射的に送った返答なのではないでしょうか? んで、そのあと、頭の脳で考えた答が出てくると。違うかな?
ところで病床にいるとき、悲惨な情況に置かれたとき、それでもそこには当たり前のようにユーモラスな出来事(当の本人はたまったもんじゃないでしょうが)があるんですよね。けど、そのユーモアを描いて読む側に抵抗なく罪悪感なしに笑わせるというのは、やはり謙介さんの観察眼であり筆力でしょう。吾妻ひでおの「疾走日記」を思い出したりしてました。とても楽しく拝読しました。早くお会いしたいものです。
Posted by: athico | 08. 03. 15 AM 2:56
---Ikuno Hiroshiさん
中学生のころですが、母方の曽祖父がなくなりました。この人は、大工さんだったのですが、建設会社を立ち上げて、大きな会社にしました。社会的にはそういう活躍していった人でしたが、亡くなるときは、一人の人間でした。どうも俺の場合、そのときの印象が強烈だったようです。どんなに、社会的な業績をあげても死ぬときは一人だ、と。そんなことを思っていたのが、やがて禅宗のお坊さんに知り合うことができて、余計に強くなりました。本来無一物なんて聞かされている間に、ふんふんとその教えが補強されて(笑)どうも、その辺が俺の場合根底にあるようです。
そうですね。Ikuno さんも俺も(とひとくくりにしてすみません)たぶん人の心に入ってまで、というあたりでひっかかるものがあるんじゃないか、と俺は思っているんですが、、。
Posted by: 謙介 | 08. 03. 15 AM 11:34
---mishimaさん
前に團伊玖磨さんのエッセイ集「パイプのけむり」を読んでいたら、本屋さんが、百科事典のセールスに来たと、そうしたときに、その百科事典には、團さんの項がなかった、っていうんで買わなかった、なんて話が載ってました。なんてまぁ、とも思いましたが、團さんだったら、まぁ載りますか。(笑) まぁでも、mishimaさんの心の中では、自分はこれをやった、っていうひそかに思ってるものはあるかもしれないですよね。それはそれで持ち続けてていい、と思うんです。それとは別に人の気持ちの中まで、、となると、それはまた別じゃないかと。そんなふうに思ったのが今回の文章を書くきっかけでした。
売店のイヤホーン。何かすごいアナクロなんですよ。これだけイヤホーン、ホラ、みんなしてて高性能なものだっていっぱいあるのに、肌色とかクリーム色の昔ながらのしかないんです。(一体いつの時代のイヤホーンなのか。)
もうしばらく、とは思っているのですが。
Posted by: 謙介 | 08. 03. 15 AM 11:42
---hollyさん
耳栓、最近はすごく高性能になっていて、また変わった種類のがあって、単に耳栓、って思ってたんですけど、そっちのほうに驚きがありました。なんかすごいんですよ。学習の効率アップ用、とか、仕事の集中力を高めましょう、とか。単に耳栓、と思って店に入ったら、そっちのバリエーションがいろいろあって、それにびっくりしました。ですが、イヤホーンは肌色とクリーム色の分だけ。(笑) やっぱりオーディオショップとか、電器店に行かないと、そこそこのものはないんですかね。(笑)ちなみにがんセンターのコンビには晩の10時になったら閉店します。18時間くらいの営業です。
Posted by: 謙介 | 08. 03. 15 AM 11:47
---athicoさん
やっぱり根が「いちびり」という部分もあるかもしれません。で、病院って、その人の一番弱いところで生活がずっと進んでいて、ましてやお年寄りとなると、もうその生活パターンで70年とか80年きているわけですから、向こうは、その方法を信じて疑いもしていない。だから理由もまったくなくて、これ、っていうふうに接してきます。でもこちらとしては、全然違うので面食らう、と、そのギャップがしんどい面もあるのですが、おじいさんのキャラクターがおもしろいので、ついつい観察してしまいます。 何であんなふうな態度に出るのか、なんで、ああいうことをして平気なのか。その思考を想像すると自分には内面が見えてきたりするので、面白かったりします。不毛な部分もありますが、そういう観察することがあってあきません。(笑)四国は春の装いになりましたよ。早く体調を整えてお会いしたいと、切に切に思っております。
Posted by: 謙介 | 08. 03. 15 AM 11:54