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08. 02. 14

小学生にでも分かることなのに

月・木が俺の主治医の診察日なので
今週は、今日。仕事帰りにがんセンターに行く。
今日は、内科外来の待合室には、俺の前におばあさんがひとりいた
だけだったので、比較的早く(予約の時間より30分遅れ程度)
診察をしてもらえた。

例によって前回の採血の結果を見て話を聞く。
やはり腫瘍マーカーの数値が去年の暮れより
上昇している。
「ということは、がんの細胞が確実に増えている、
ということですか? 」
「まぁそういうことになるねぇ、、。」
主治医と相談の結果、なるべく早いうちに一度入院して
がんをみてみましょう、ということになる。
またまた入院のようだ。

このところ、口の中が少しおかしい。
何か粘膜にさらにもうひとつ膜ができたような
気がして、、、と話をしたら、それも肝臓の病気が
原因なのだそうな。口の中の状態も
肝臓の影響だなんて、はじめて知った。
「肝臓の病気というのは、肝臓だけじゃなくて
全身の病気と考える必要があるからね。」ということらしい。

口の中の状態が悪化すると、そこからがんができて
くることもあるから、またそれもよく診たいですね、
という話だった。

明日、仕事場に行って、これから先の仕事の予定とか
をよく見て、入院する日を考えようと思う。

肝臓の検査、県内のほかの拠点病院でも
できるようになったからね、という話を聞く。
なので、その話をする。
「だけど、先生、受診件数なんて、そんなに
窓口を作ったところで増えやしないんじゃないですか? 」
と俺が言う。「だって、今の医学じゃ肝炎の完治
なんて無理じゃないですか。
治りもしない病気をワザワザ診て、専門家に、あんたは
肝炎です。」って念押しされに行くような人間って、いると思います?」
と言う。

そうじゃない? 
そんなもの、小学生が聞いたって、分かる話じゃない?
完治はしない病気なのに、わざわざ時間と費用をかけて
誰が行くだろうか? 

新聞の報道だってウソがある。
というのが、今、肝炎の治療は
リパビリンというフランスのお薬と
ペグインターフェロンっていう注射を併用
して、これを1年間から1年半続けるというもの
なのだけど、この治療方法で
完治する可能性が50パーセントになった、
という記事があった。効果が出てる、という。

でもね、リパビリンと、インターフェロンの併用療法を
しようと思ったら、まず、年齢的に比較的若くないと
できない。それから、実際治療を始めても
この治療法は副作用がものすごくきついので
15パーセントくらいの人が途中で治療から
脱落する。
だから、結果的に最後まで治療を継続できた
人には、50パーセントくらいいくかもしれないけど
最初の分母を考えたら、実際は4割行くか、どうかの
人しか治らない。
そんなほかの6割が救済できないような治療に、
しかも今の医学で完治はできない治療に、誰が行くか?
って俺は思う。

肝炎患者の治療費の半額負担が先月ごろに
マスコミに記事として報道されていたけれども
国と地方公共団体の額の支出配分が決まらなくて、
まだ、何の救済策も立案されていない、とのこと。
肝炎患者の救済とか言いながら、その実
なんにもまだ決まってなんかいない、ということだった。
主治医も、わたしのところにさえそうしたことが
さっぱり伝わってきていない、といっていたし。

国のこうした施策なんて、いつも何かちぐはぐで、
全然患者のことなんて考えていないじゃないか、
マスコミも言うだけで後のフォローなんて全くしようと
しないしなぁ、、。
と改めて思いながら、ちょっと重い気持ちのまま
家に帰ってきたのだった。


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Comments

どうも。
不意をつかれた感があります。
きっと、日記をずんずん遡って読めば、謙介氏の病気のことも出てきたのでしょうが、そこまで辿り着いてはいませんでした。

人それぞれ、色々なことを背負っての人生ですから、誰かえらくて、誰が劣ってるか、なんてことは無いのだと思いますが、自分の背負っている範疇には無いものを持って生きている人には、場合によれば、尊敬の念を抱くこともあるでしょう。

比較的、どういう種類の病気とも、ご縁が薄いまま、この歳(どの?)まで来ており、無縁、と思い込んでいるところもありますが、こればっかりは。いつ何のきっかけで、親しく相見えることもあるかも知れない。

だからと言って、何も無いうちに、何の準備をすることもできないのだから、やはり病気というものとは、突然、衝撃的に出会うという方法しかないのですかね。

入院、ですか? とにかくは、養生してください。まだ寒いようですので、気をつけて。


Posted by: Jean de Tokio | 08. 02. 14 at 오후 11:25

----Jean de Tokio さん
もうこの病気との付き合いもずいぶん長くになりました。基本的に毎週月曜は病院の日なので、このブログ、月曜のところだけ
抜き出して読んでもらったら、たぶんずっと病院での記録が書いてあるはずです。
はじめて病気が分かってからやっぱり半年くらいは気持ちの整理にかかったように思います。でもまぁ、結局は、そういう病気にかかった、と仕方がない、と自分の心に折り合いをつけるのにやっぱり相当の時間がかかりました。この病気は、よくて現状維持の時間をちょっとでも長くさせるしか方法がありません。主治医は必ず悪くなる、なんて正直すぎる説明をしてくれますし。(苦)いろいろなことを思いましたし、考えました。だけど、もう、仕方がない。治る見込みがあまりないのだったら、それを受け入れて悪化させずにずっと持ち続ける、ということでしょう。共存する、ということでなんとなくいまは落ち着いている、というところです。だけど、病気にならなかったら、考えなかったこと、思いもつかなかったことを考えたり思ったのは、ひょっとしたら収穫だったかな、と今は思えます。ここまで来るの結構時間はかかりましたけど。まだ入院はちょっと先で未定です。この病気は、内臓の病気なので、節制してもしなくてもあんまり関係ないんだそうです。まぁやけを起こしてむちゃくちゃしたら、それはもうだめでしょうけど。身体の状態をみてもらってこよう、という感じです。お見舞いの言葉どうもありがとうございました。

Posted by: 謙介 | 08. 02. 15 at 오후 1:47

「折り合いをつける」という生き方が、人間に与えられた生き方なのではないかと思うのです。

どこかの動物園で、骨折したキリンに義足をあてがってみたら、巧く行かず、人間が次の手段を考えている間に、キリンはあっと言う間に生きることを止めたしまった、という話を聞いたことがあります。自然の動物らは、折り合いなどをつけずに生きる。だけれど、人間は、そうではないのだと思うのです。

今回の怪我以前に、左膝の靭帯を2本切ったことがあったのだけれど、不自由は不自由なりに、それでもより楽により心地よく生活することを、知らないうちに考えたし、今回の怪我の不自由さは、ある意味楽しめる余裕すらある。どうやったら、今与えられてしまった現実と向き合って、一緒に進むことができるのかを考えてしまう、生き物なんですよね、人間は。

それらのどちらが良いのかは、よく分からないけれど、これもまた、我らが人間であるということと、折り合いとつけて生きて行くしかない、と。

こういう言い方は、誤解を生むかも知れませんが、この数日、こうしてやりとりをさせてもらっていることを、とても楽しく(&心待ちに)思っています。一つ一つのことばに意味のある文章に、飢えていたんです。これからも、是非、よろしくおつきあいください。


Posted by: Jean de Tokio | 08. 02. 15 at 오후 9:41

----Jean de Tokio さん
このブログの中にも何度か書いたことなんですが、俺の院の修論って、日本書紀から以降の六国史の中の死亡記事ばかりを集めてきて、どういう記述がなされているか、っていうのを比較検証したものだったんです。記録ですし、なくなった人のことを後から書くので、やはり人によったら相当の脚色もありはしたんですけど、それでもその根底に流れている人の死をどう考えるか、ということはやはりいろいろと考えさせられました。それからがんセンターに通うようになって、何度か入院もしたのですが、その中でも同室だったりかつて一緒に話をしたりした人がある日亡くなったということになったりしました。そういうことで、死というものを身近に考えたりもする機会がありました。普通にのほほんといたら、そんなことまで考えなかった、というか考えるのを先送りしていたかもしれません。そういう機会が与えられて、自分はよかったように思います。それはまだ自分の中で消化はしきれてはいないけれど、何か核のようになっているのではないか、と考えます。
ウェブの世界、本当に星の数ほどいろいろなサイトが存在しますよね。そんな中でこうして出会えたことはやっぱりすごいことだと思います。これからもどうぞよろしくお願いします。

Posted by: 謙介 | 08. 02. 15 at 오후 11:17

死というものを考える独特の感覚は、実は嫌いではないのです。

もし俺が死んだら、という仮定の話を、日常的に結構するのが自分では割と自然なんです。昔付き合っていたイギリス人に、そういう話をしたらとても嫌がられて、お前は死について語り過ぎる、と叱られていました。

自分が死んで、どこかで、遺された人たちを眺めていることができたら、面白いだろうなあと思うんです。自分の死を通して、自分と相手の人間関係が、どれだけのものだったかを知ることができるような気がするんですよね。ただ自意識が過剰なだけなのだと思うけれど・・・
まあ、問題は、死んでどこかでそんな様子を見ていることが本当に可能なのかどうか、というところですがね。

須賀敦子という作家、ご存知では無いですか? 俺にとって彼女の文章というのは、とても特別なものなのです。生きた時代も背景も違うけれど、とても共通するところもあって、彼女のことばを臨場感を持って読むことが出来ることが多いのです。

彼女の書く文章には、多くの人(夫をはじめ、家族や旧知の人たちなど)たちの死が散りばめられています。そういう箇所を読んでいて、ふと、感じることは、そういう親しい人たちの死を思い起こして、遠くに落ちる夕陽を目を細めて眺めているような作者自身も、もう既にこの地上には存在しないのだということに気づくと、何かトラップにはめられたような気になる。不思議で複雑なトリックが仕掛けられた手品を見ているような気になる。と、同時に、やっぱり必ず、自分にもその瞬間がやってるくるのだという現実を突きつけられるような、
そんな気もするのです。

ちなみに、俺の卒論は、『幼児の食生活と信仰心』生きるということを書いたけれど、それは死のことを書くことと違うようで、結局は同じことかとも思うのです。

Posted by: Jean de Tokio | 08. 02. 16 at 오후 10:45

----Jean de Tokio さん
よく死ぬことはよく生きること、という意味で死を考えるということは、どう生きていくか、ということを真剣に思うことだと思います。
そういう考えのもとにJean de Tokio さんも
死を考えておられたのか、という気がしました。須賀さんの本は何冊か読んでいます。
最初に読んだのが「コルシア書店の仲間たち」で、あと、「トリエステ」と「ユルスナール」を読みました。 そうですか。きっとJean de Tokio さんはカトリックということもあるのかもしれませんね。彼女の書いている死なんですけれども、仏教の持っている近しい死とは、少し思っている部分が違うかな、という気も読んでいてしました。だからどうだ、ということはなくて、雑駁な印象だったので、どう違うのか言ってみろ、といわれたら、まだそこまで言葉にはできないんですけどね。あ、そうでした。この本を薦めてくれたのは、知り合いのシスターでしたよ。

Posted by: 謙介 | 08. 02. 16 at 오후 11:48

キリスト教と仏教では、確かに死ぬということの理解に違いがあるのだとは思います。でも、死ぬということそのものは、誰であって同じなんですよね。
仏教で言う輪廻転生と、キリスト教の復活も、似ているけどちょっと違う。でも、どちらにも死の向こうに何かしらの希望を見いだしているような気もするのだけれど、どうでしょう?

非キリスト教文化圏で生まれ育ったキリスト教信者は、こういう何か狭間みたいなところにいるという自覚もあるんですよね。ヨーロッパなどでは、死を否定的にとらえるからこそ、復活を望むけれど、アジアでは死は時に肯定できる文化が無いでしょうかね? だから何度でも死ぬ(笑)

何だか、死ぬ話ばっかで、恐縮です。

須賀敦子、謙介氏はきっと知ってるだろうなーとの予感がありました。ちなみに、明日20時〜BS朝日で彼女の作品を紹介する番組(再放送なんですが)があります。イタリアのアッシジの聖フランチェスコと、須賀の関わりが紹介される、珠玉の番組(だと個人的には思ってます)です。

Posted by: Jean de Tokio | 08. 02. 17 at 오전 12:13

あ、それと、謙介氏、

きっとJean de Tokio さんはカトリックということもあるのかもしれませんね

と、書いてるけれど、残念でーしたー。
Jean de Tokio、正式にはプロテスタント(っていう言い方がかなわんねんけど)なんですよ。ただ、自称、限りなくカトリックに近いプロテスタント。

というよりは、そんなんどうでも良いんです。キリスト教信者ということで良いと思っているわけです。

カトリック教会は、正式には、非カトリックのキリスト教信者は、カトリックのミサで聖体拝領(キリストの体に聖変したパンと、同じくキリストの血に変わった葡萄酒をいただく)には預かることが出来ないと言っているんです。これは、教理が違っていていて、理解の仕方が違うから、ということなわけですね。でも、俺はもう20年近く、自分の意志で預かっていて、そこに矛盾は感じてないのです。なら宗派替えすれば、と言われるけれど、それはある意味とても簡単なことで、むしろそうしないところで、ささやかなプロテスタンティズムを表現しようかな、と、思ってたり、思ってなかったり。(そんな深く考えてないなぁ ww)

Posted by: Jean de Tokio | 08. 02. 17 at 오전 12:52

----Jean de Tokioさん

本来の仏教の輪廻転生っていう考え方は、もうちょっと無味乾燥かもしれません。いろんなものに変わって、淡々とそれでも「生」だけは続けていく、ということで。で、日本の仏教っていうのは、世界の仏教から見れば、ずいぶん変わっているのでね。大体本来の仏教は、人が死んだら、極楽に行って、それっきりでおしまい。なんです。日本だけ土着の宗教と混じってしまったためにあの世へ行ったり、お彼岸、お盆に戻ってくる、という考え方をしているわけで。ずいぶんとそこに「人間的な感情」というのが働いているように思います。ただだからといってインドの仏教がいいとか、日本の仏教が
どうとかというのはありません。ただ日本の宗教が「罰があたる」とかいうふうにメンタルな面があるのはやはりこの風土が緑が多くて湿潤な土地だったから、というのがあるかもしれません。中国に住んでいたときに、河南省の少林寺に行きました。この裏山が崇山という山で、ここで達磨が座禅をしたのですが、この乾燥した場所に行ってみて、そうした日本の仏教と中国のそれとは全く違うんだろうな、ということに気づいたわけです。
あ、カトリックじゃなかったのですね。四谷の教会ってあったから、上智の横のイエズス会のあの教会と思って、ほんならカトリックかいな、と思ったのです。

Posted by: 謙介 | 08. 02. 17 at 오후 1:27

そうですよ。通っているのはその教会です。
日本のキリスト教会の中でも恐らく1、2を争う
(争っても競ってもないけど)大きな教会で、
正午のミサは、英語ミサなので雑多な人種が
集うミサなんです。

無味乾燥な仏教、なるほど。
そう言われると分かるような気がします。

キリスト教の捉え方も様々あると思うのですが、
個人的には、砂漠のノマッドたちに生涯を捧げた
シャルル・ド・フコーの精神や、
アッシジのフランチェスコのような修道の精神、
などに、挽かれるのです。
どちらかというと、精神的な意味で、乾燥した印象のある生き方に(実際そういうふうに生きることができるかどうかは別として)憧れます。
でも、そこに人間的な感情が働かないか、というとむしろ真逆で、非常に人間的に、自分の理想の前に自分の弱さをさらけ出して、葛藤する苦しみの究極に、楽園を見いだす。そういう生き方を、個人的には望んでいるのですが・・・

Posted by: Jean de Tokio | 08. 02. 17 at 오후 10:47

---Jean de Tokio さん
うーん、そういうのがお好きなら、高橋たか子さんは、読みました? 俺が大好きな小説家の高橋和巳の奥さんなんですけどね。この人はカトリックですが。和巳が1971年に亡くなった後、カトリックの信仰に傾倒していってもう少しで、シスターになる、というところまで行って、結局なりはしなかったんですけどね。荒野の中に生きる人間のキリスト教の信仰の問題、とか、ヨーロッパの個人主義の中での信仰の問題、いう方向からはずいぶんと著作があります。
多分ご存知だとは思いますが。ちょっとご紹介を。

Posted by: 謙介 | 08. 02. 18 at 오후 7:57

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