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07. 07. 30

朗読会 (その1)

先週の木曜と金曜は体調がよくなかった。
どうしてもしなければならないことだけやって
後はおとなしくしていた。
それというのも、土曜にどうしても行きたかった催しが
あって、それもあって体調を整えておかなければ、
と思ったからだった。

今月のはじめ、ある図書館の方から、峠三吉の詩の朗読会を
今度うちでするのだけど来ませんか? というおさそいをうけた。
行きたいな、って思ったのだけど、その一方で、体調が
いまひとつ安定していないので、、どうなるかな、
なんて思ったり。電話をして、「行けるようだったら行きます。」
とお伝えをしておいた。

土曜日、朝起きると、前日まで背中が痛かったのだけど
それも収まっていたので、行くことにした。
ちょっと早めにお伺いをすると、
すでにもう何人かのほかのお客様も来ていた。
その中に知り合いのおばちゃんがいて、久しぶりに会ったことを喜ぶ。
うるさ型のおばちゃんには、なぜだか受けのいいおいら。(苦笑)

朗読会の開始まで時間があったので、図書館の館内を
自由に見学させていただく。
この図書館は去年の10月に新築なったばかりで
どこもぴかぴかでおしゃれだ。
いいなー、いいなー と言いながら、あちこち探索する。


やがて、時間がきて朗読会が始まった。
最初にこの図書館の館長から、挨拶があった。
今の世の中っていうのは、相手が言ってきたコメントについて、
すぐさま、こちらが当意即妙に返すことばかりが評価される
ような風潮があるのじゃないか。何でもかんでもワァワァと
言わないといけない、ようにはなっていないか、という話。

言葉にならないような想い。
まだ形になっていない思考。
すごく悲しいけれど、でもちょっとおかしい。
腹がたつけど、でもちょっと惹かれる。


俺が最近のテレビドラマなんて全然見る気が起こらないのは、
役者の演技があまりに単純でしかないからだ。

人間の気持ちっていうのは決して単純じゃない、って俺は思う。
寂しいけれどどこか笑っている自分。
腹はたつけど、抑えている感情。

だけど最近のドラマの役者の演技って、
「俺は怒ったぞー」か、「俺はうれしいぞー」の2つしかない。
笑っているか、怒っているか。


人間の感情って本当にそれだけなのかな? 
そんなことをきちんと表現できる役者さんが一体どれくらいいるだろう?


表面的な感情だけを見る、ということしかできない今の社会
に対して、もうちょっと深いところでものを考える、そういう機会を
今日はどうかお持ちください、と最後に館長は挨拶をしめくくった。

峠三吉は広島で被爆して、その後遺症に苦しむ中で
たくさんの原爆の惨状を描写した詩や、残された家族の苦しみ
悲しみや怒りを描写した詩を発表した。
その中の10編を、朗読してくださった。

広島・長崎に原爆が落とされて、62年が経った。
経験された方々も少なくなり、記憶も風化されていって
とうとう「しかたがなかった」なんて言い出す大臣も出てくるように
なってしまった。
人間は忘れる動物だ。だからこそ、こうやって忘れてはいけないことは
折にふれて、記憶を新たにしておかないといけないんじゃないか、
って思うのだ。
図書館から出てきた外の風景は、こんなにのんびりとしていたのだけど。

070728


戦争について、平和について。この日の朗読を聞いて
いまだ自分の中でまとまった考えができてはいないのだけど
なんだか大きな宿題をもらったような、そんな気がしながら
帰ってきたのだった。


仕事帰りに病院に行く。
いつものように採血をして、先日の入院中の検査結果を見ながら
少し話を聞く。
処方箋をもらって、病院を出る。
西日が長い影をつくっていて、
気がついたら、その影を何気なくぼんやりと見ている自分がいた。

今までの人生。これからの人生、どんなふうになっていくのかな。
思い返すといろいろなことがあったなぁ、、。
そんなことを影を見ながら考えたり、思い出したり。

夏の日の夕方って、こんなふうにぼんやりと放心状態になって
立ち尽くす、っていうことがたまにあったりする。
(こんなことって、俺だけなのだろうか。)

(今日聴いた音楽 J.Sバッハ作曲 ブランデンブルグ協奏曲
 第一番 ヘ長調 BWV1046  パイヤール指揮
 パイヤール室内管弦楽団演奏 1973年 6月 録音)

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Comments

私もヒグラシの声を聞きながら、田の畦に立って
風に揺れる緑の稲を眺めたりするのが好きなのですが、
あの日確かに、肌を刺す熱を帯びた閃光と、
窓ガラスをすべて割ってしまう暴風が吹き荒れました。
穏やかな自然もその日を境に変わってしまいました。
半世紀以上経った今、その自然は元に戻っていますし、
それを伝えるものは、こちらから見に行かない限り、
見えないところにあったりします。
忘れられるのも自然の流れかもしれませんね。
祈り…ってなんでしょうね。
目に見える特別な力はないけど、特別な日には必ず祈る。
それは、原爆の日だけではないですね。
忘れないこと、捨てていくこと。
思いも取捨選択して、忘れたい過去なのに…。
それでも今日まで、伝わっているんですよね。

梅雨も明けて、夏の暑さも本格的になりました。
お体を大事になさってくださいね。

Posted by: ヒシ | 07. 07. 30 at 오후 10:14

 どんな原爆詩よりも,「生ましめんかな」のリフレインに「人」を見て涙してしまう僕です。根本に仏教があるからかな・・・。
 祈ることしかできない,でもその祈りを忘れてはいけない。祈りのないところには,どんな言葉を持ってきても空しく消え去るだけ。


 ところで,パイヤールとはまた懐かしい・・・もしかして「エラート友の会」ですか?(笑)
 ちなみに,僕をバロック宗教音楽にのめり込ませたのはコルボです(笑)

Posted by: Ikuno Hiroshi | 07. 07. 30 at 오후 10:28

---ヒシさん
 何年か前に出張で長崎に行きました。JRの長崎駅から電車に乗って浦上のほうへ行きました。もうあの日を想起させるものは、被爆された方の案内でもない限り、俺みたいなよその人間が、通り過ぎたくらいでは分からないようなことになっていますよね。確かに人間は忘れられるから、次のステップに行くことだってできます。忘れるって、確かにそういう一面もありはします。けれども原爆が落ちて、大切な家族が、友達が、同僚が、一瞬にして亡くなってしまいました。その亡くなった人を悼むすべとして、われわれ一般の人が一体何ができるのか、ということになったら、もう、祈ることくらいしかできないですよね。無念に亡くなっていった方へのせめてもの思いが、私たちを祈りを捧げることに駆り立てているのかもしれないですね。

Posted by: 謙介 | 07. 07. 30 at 오후 11:27

---Ikuno Hiroshiさま
生ましめんかな、何度読んでも泣けて仕方がありません。絶望の中での「生」の誕生。自分はもう死んでいくしかできないけれども、何とか無事に新しい命は育って欲しい。そんな一筋の祈りや希望がかろうじて支えになっているような気がします。8月が近づいたから、というのではホントはいけないのですよね。こういうことは、ずっと自分の問題として考え続けていかなくちゃ
ならないように思いました。
 パイヤールのこのブランデンブルグ協奏曲が、何だかいちばん清新ではきはきしていて、個人的に好きです。(笑)

Posted by: 謙介 | 07. 07. 30 at 오후 11:34

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