紆余曲折を経て
昨日友達から仕事場に荷物が届いた。
送ってくださったのが、
中に入っていたカードから想像して去年の暮れ。
もちろん日本の配送業務のことだから
おそらく去年のうちにこちらに到着していたのだろう。
俺が入院していたので、しばらく留め置きになっていた。
それでようやっと昨日、その荷物を受け取った。
中身は去年東京の国立博物館で開催された
仏像の展覧会の図録と
彼がお気に入りというお菓子だった。
お菓子にカードが添えられていて、
お見舞いとはげましのことばが
記されてあった。
大学の3回生のときに中世文学講読の授業で
兼好法師の「徒然草」を読んでいった。
右京区の常盤に住んでいた自分としては、「徒然草」って
決して遠い古典の話ではなかった。
だって兼好さんは目の前に横たわって見えている双が丘の
つい向こう側に住んでいた人だったし。
「徒然草」って大学で読むまでは、
入試問題でもう何度となく出てきていたので
何を今更、という気もしていた。
でも大学に入って読んだ徒然草はちょっと違った感じで
俺の中に入っていった。
古典、っていうのではなくて、その当時自分の抱えていた
問題のヒントになるような文章もあって、
読んでいて、あ、これ何となく分かる、っていうこともところどころ
あった。
今も時々気が向いたら徒然草を引っ張り出してきて読む。
こないだの入院の時も時間が(飽きるほど・笑)あったので
徒然草を読んだ。
兼好さんは、物をくれる友達がいい、という。
高校の時は、ただただ単純に「そらまぁ、物をくれる友達って
ええのん決まっとるやんか。」と思った。
昨日もいただいた荷物をかかえて帰るとき、その兼好さんが
言った「物をくれる友達」のことを思った。
物をあげる、というまでには、プレゼント選び、っていう
ことがある。あいつだったら何が一番うれしい、と思うかなぁ、
ということからはじまって、どういうふうに渡そう、とか
いろいろ考える。
そりゃあまぁ、兼好さんの時代にはリボンをかけて、なんてことは
なかったでしょうけど(笑)それでも相手が喜んでくれる
という気持ちを想像して渡す、なんてことはあったと思う。
今と違って物がたくさんある時代ではなかったから
一つひとつのものが、それは大切にされてきた
ものだったはず。
そうした自分が大切にしてきたものを、相手にあげる、
というのはそれは今なんかより
ずっとずっと重い意味のあることだったと思う。
だからものをくれる友達は文字通り「有り難い」存在
なのだと、兼好さんは書いたのだろう。
今だって誕生日のプレゼントとか何かのお祝いで
物をいただくのはうれしいことだけどさ。(笑)
自分以外の人間に向かって、その人の立場になってあれこれ考えて
それでようやっと「これかな」って結論を出したものを渡す。
今回は「送りましたよ。」っていう彼からのお知らせがあった。
紆余曲折があって、到着までに時間がかかったけれど、
そんな到着までの時間だって、これがまたドキドキわくわくする。
これもまた楽しみ。(笑)もちろん唐突に渡される、なんていう
サプライズなら、より驚きやうれしさだって大きいよね。
プレゼントって、贈る側の気持ちもいただく、ということも
あると思う。
自分以外の人の気持ち、っていうのを考えたり
あれこれと想像してみたりする、っていうことが
今の世の中で一番欠けていることなんじゃないかなぁ。
他者への想像力って、たしかに難しいことではあるけど、
こんなところから手がかりにして想像力を少しずつ拡げて
いけばどうだろう。
そんなふうに昨日は思った。
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