生きるということ、死ということ
昨日の晩京都の嵐山に住む坊さんの友達から
電話で話していた。「入院してたんやって?」
「うん。」
「身体どないやねん?」
「ちょっとしんどいなぁ。」というような話にはじまって、
渡月橋の欄干壊しよったアホが居ててなぁ、なんてお互いの近況報告。
「頼みがあるんだけど。」と俺が言う。
「何や? 」
「俺があかんようになったら、戒名考えてくれるか?」
「戒名? そんなん、お前自分で考えたらええがな。
康熙字典やら諸橋の大漢和引いて字選んで自分で考えて
作ったらええやん。俺、それでオッケー出したるし。」
「分かった。そんなら院号つけて、下には大居士つけよ、っと。」
「贅沢な。院号に大居士つけてたら高いぞ。」と、自分で考えろ、
とさっき言ったばかりなのに、彼はそう言う。
まぁね、院号なんてつけようとは思わないけど。(笑)
ごくたまにニュースとか新聞で、家族が亡くなって
お寺さんに戒名をつけてもらった、と。
で、何とか院、っていう院号をつけてもらったら、値段が
ものすごく高かった。詐欺だ! なんて憤慨してる人がいるんだけど、
それは院号っていうものが、どういう場合につけられる
ものなのか分かってない人だな、って思う。もちろんお寺のほうも
ちゃんと説明してなかった、ってこともあるんだろうけど。
元々戒名に「何とか院」なんてつけられるのは、その
お寺に莫大な寄付をした人が、(例えば五重塔とか本堂の改修を
全部その人の財産でやったとかね。 だからそのお寺に何億、とか
何千万っていう金額を寄付した人が)長年そうやって
お寺の経済をご支援してくれました。このお心にせめてもの
ご恩返しでね、っていうので、お寺から栄誉として贈られる称号
が院号だもの。お寺なんてその意志に対して物質的な
お返しはできない、だからせめて院号でもさしあげて、
なくなったこの方は、特にこの寺に対してご援助
くださったから、っていう顕彰の意味が院号な訳でしょ。
だから、そのお寺に格別の援助をしてきた人じゃないとつけて
もらえるものじゃなかった、っていうことでね。
こういう言い方は本末転倒だけど、もし院号をつけて欲しいのなら、
何百万とか何千万とかのお金をお寺に寄付しなきゃなんない。
ところが、元々はそういう大スポンサー用の称号だったものが、
院号が大量乱発される時期が来た。
仏教界が太平洋戦争で戦死した人に特別に院号をつけたんだ。
(これは国策だった、っていう説もあるけどね。) お国のために
亡くなった人にせめてもの供養という気持ちとして院号を贈った。
そんなことがあったために院号の意味がずいぶん「変化して」きて
しまって、うちの戦死したひいじいちゃんついてた、だからじいちゃんも、、
なんて遺族が言い出して、誰にでもつけてもらえる、と勘違い
する人も出てきた、っていうことね。で、お寺のほうも
寄付が欲しいから、戦争が終わってもそういう
安易な院号連発をやめなかった。その結果院号が
「ちょっとお金をはりこんだら、つけてもらえる」
っていうことになっちゃったみたい。
本来のインド仏教って、人間は亡くなったらあの世に行って
それでおしまいだもんね。
日本の仏教だけだもん。死後の世界とか、何かの霊とか言うんだよね。
元々仏教ではそんなものはなかった。たまたま日本の仏教を
布教する中で、元々あった日本の土着の信仰とか神道の
考え方も取り入れた結果、そういう何とかの霊とか
お盆とかお彼岸とかできた、っていうことだもんね。
だけど宗教って、それを信じて、その信じた人が心が安らかに
なるとか、落ち着ける、とかいうのであれば、それほど
細かいことにこだわらなくてもいいような気もするけどね。
死とか考えるのは、ちょっと、、って言う人もいるよね。だけど、
俺はずっとこんな坊さん友達と、自分が死んだら、なんていう話をしてきたし、
修士論文も六国史の全死亡記事を扱ったりしてきたし、病院にもいて
そういう自分の周囲やもちろん自分の問題として
考えてきたこともあるから
そういう生や死の話は友達と頻繁にする。
今の世の中って、人の命ということが
一方でものすごく軽んじられていて、
その一方で、死がものすごく
避けられているような気がする。
相反したものが人の気持ちの中に
同居しているような気がする。
彼がそう言うので、「康煕字典」やら「説文解字」を本棚から
抜いてきて、いろいろ辞書を持ってきて眺めてみる。
そんなことを考えたり辞書をぼーっと眺めているうちに
いつか俺はこたつの中で寝てしまったのだった。
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